兼六園の桜が満開ということで見に行った。
金沢城の石川門付近は平日(4月8日)の午後にもかかわらず「お花見無料開放」ということで人でいっぱいだった。
桜に囲まれた石川門の風景はいつ見てもすばらしい。
石川門の石垣の下にある広場「沈床園」には「お花見の宴会」の場所とりで、既にブルーシートが何枚か敷いてあった。
十数年前に夜間に行ったときに「沈床園」で多くの宴会をやっていて、その頃には若者たちの間で「一気飲み」というものが流行っていて、「急性アルコール中毒」で救急車で運ばれるものがでるのが恒例になっていたが、今はどうであろうか?
また酔っ払った勢いで金沢城の石垣を登る輩がいて非常に危ないが、それを石川門の上からはやしたてる見物人がよくいた。
茶店が並んでいる付近には屋台も多く出てにぎわっていた。
桂坂入口から入ってすぐの「桜ケ岡」付近はその名の通りソメイヨシノの桜が非常に多いところである。
戦前の頃までは、金銀の短冊に名歌、名句を描いてつるすという行事があり、風流人が競い集まっていたとか。藩政時代の安政期の頃は、桜ヶ岡、常盤岡一帯はまだ桜がなく、田が広がっていたという話を聞いたことがある。その頃は大名の生活の必要性から生まれた庭園で多目的に利用されていたという。
花見橋付近の桜も水と橋とのコントラストがきれいだった。
兼六園にはソメイヨシノの他に有名な桜がいくつかあるので紹介する。ただ、ソメイヨシノより遅く咲くのでまだつぼみ状態だった。
雁行橋のほとりの曲水の近くにある「旭桜」は加賀八家の村井家の屋敷にあったものを移築した
園内随一の大桜だったといわれている。ソメイヨシノの花弁が散って曲水に浮かんで流れている頃に満開となる。1937(昭和12)年に枯死して、今は2代目が往年をしのばせている。それまでは兼六園のシンボルであったが、その後のシンボルはことじ灯篭に代わった.
珍しい牡丹色の「兼六園熊谷桜」は水戸藩から贈られたと伝えられているヤマザクラでソメイヨシノより1週間ほど遅い。
300枚以上の花弁をつける「兼六園菊桜」(2代目)は4月下旬から5月中旬までの約3週間と長く咲く。全国にある多くの桜のなかでも珍しい品種である。
地蔵堂の後方に「塩釜桜」がある。竹沢御殿を建てた時に中庭にあったという。現在のものは宮城県塩釜神社よりよせられた5代目である。
桜の満開の時期に梅林に桜よりひときわ濃いピンクの「麻耶紅梅」が咲いていた。
兼六園の帰りに犀川沿いを通り、桜橋と大橋の間のソメイヨシノを見たが、ここも兼六園と負けじと大変きれいだった。この辺も金沢の桜の見所の一つである。
河原の芝生では多くの人たちが散歩したり、休憩したりしていた。
「桜橋」、「桜坂」、「桜畠」などの名前があるが、藩政期に金沢城の高台からの眺めをよくするためこの辺に多くの桜の木を植えたという。
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