2014年3月14日金曜日

兼六園 梅林 時雨亭(1)

兼六園の梅林の梅が咲き始めたということで見に行った。日曜日で穏やかな日だったので、多くの人が梅林を散策していた。(3月9日)
この梅林は、1968(昭和43)年に「明治百年記念事業」として、北野天満宮や大宰府、水戸偕楽園などの協力により全国の名梅を集めて造成された。現在は約200本の梅が植えられ、そのうち白梅が130本、紅梅が70本である。
八重寒紅、麻耶紅梅、白加賀など20種類あるという。







































梅林の中には小川が流れ、小さな雪吊もしてあり、風景が非常によかった。




















梅林の流れ沿いに、散策の途中に一息つける「舟之御亭」があった。
藩政期のころには桜ヶ岡の茶店付近にあったらしく藩主や招かれた家老などが園内を楽しみながら御亭に立ち寄り一服したという。これは絵図をもとに舟形の四阿(あずまや)を再現したという。




















私の子供ころには、この辺は芝生の広場と児童遊園になっていた。芝生の広場ではボール投げをしたり、児童遊園ではブランコ、すべり台、鉄棒のほかに珍しく「つり輪」があり、ぶら下がってみたが、どうやっていいのか分からなく苦戦していたのを覚えている。
この広場は、以前からいろいろな集会に利用されていたが、1917(大正6)年に衆院議員選挙で中橋徳五郎と戦った普通選挙運動の旗手で、後に大臣を務めた「永井柳太郎」がここで「来たり、見たり、敗れたり」で有名な落選演説をした場所だ。




















梅林の中に樹皮がえぐられた松の木があった。これは太平洋戦争のときに政府の指示でつけられた傷である。戦時中に飛行機の燃料にするために、松から松脂(まつやに)を採って松根油にして、それで飛行機を飛ばそうというものであった。科学的には可能だったというが、膨大な松脂を必要とし、実際のは使われなかったらしいが、使えるものは辺り構わずなんでも使おうという悲劇の時代であったことが想像される。




















梅林の裏手のほうにひっそり建っている塔がある.この塔は1933(昭和8)年に「ラジオ塔」として建てられたものだそうである。銅板葺屋根がお寺の塔の御堂のようで、下の石組みも見事で付近の風景にあっている。その当時は、まだラジオは珍しく「ラジオ体操」や「野球の試合」の実況放送が始まると、この前に人が大勢集まったという。

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