今回は、兼六園の金沢神社の裏手にある通りの向かいの場所を巡った。
ここに、大きな神社があることは以前から知っていたが、入ったことはなかった。
「石川護国神社」といって、幕末の戊辰戦争から始まって、日清、日露戦争、日中戦争そして大東亜戦争などで戦死した石川県関係の戦没者が44,880余柱を祀ってあるという。
14代藩主だった前田慶寧が戊辰戦争の戦死者を1870(明治3)年に卯辰山の招魂社を建てて祀ったが始まりで、1935(昭和10)年に現在地に遷座した。そして1937年に「石川護国神社」という名称になった。
私の従姉弟の親(叔父さん、義理の叔父さん)も亡くなっているが、大東亜戦争では石川県関係の人は一体何人亡くなったのであろうか?大きな碑が建っていた。8月15日には、石川県戦没者平和祈願祭がここで盛大に行われている。
金沢市出身の人が沖縄で激戦地跡や遺骨収集を見聞した後、現地の「トラバーチン石」などを持ち帰り、これを大東亜戦争全線域の象徴石とし、亡くなった人の慰霊と世界平和を祈願して建立された「慰霊平和祈念碑」があった。
石川護国神社では7月の「万灯みたままつり」には、幻想的なあんどんの灯りが並び、期間中は夕方から翌朝まで灯されるという。
この神社の隣の敷地には、三つの建物が並んでいた。
右側にあるのが、現在は石川県庁舎分室となっているが、この建物は明治31年に金沢城の二の丸跡に建築された「旧陸軍九師団司令部庁舎」で、昭和45年に現在地に移築された。その際に両側が半分に縮められたが中央は原型そのままという。木造2階建、茅葺で、初期洋風建築のもつルネサンス風の外観である。明治期の庁舎建築の模範となった建物である。
その隣にある建物は「旧陸軍金沢偕行舎(かいこうしゃ)」で、明治31年に陸軍九師団の創設とともに大手町に建てられた。木造2階建、茅葺で、将校の親睦の場として利用された。隣の簡素な庁舎風建物と好対照で、華やかな技巧を凝らした明治ロマンの感じがする建物である。
右端にある建物は「石川県立能楽堂」で、能楽や邦楽から伝統的な芸術文化を振興させる目的で、1972(昭和47)年に建てられた。能楽は藩祖の前田利家に端を発し、歴代藩主が手厚く保護した。ここでは8月を除き毎月定例能と呼ばれる催しをはじめ、能、狂言、仕舞が上演されているという。
1932(昭和7)年に市役所の裏に「金沢能楽堂」が竣工し、新しく能舞台がその時作られたが、ここの能舞台はそれをそのまま移築したものである。
そういえば、50年以上前の中学生のときに市役所の裏にあった「金沢能楽堂」へ学校から能を団体見学し、眠たい目をこすりながら見ていた記憶がある。
舞台の下には9個の瓶があり、音響効果を出していると聞いたことがある。太鼓の音や能役者の声が思いがけなく大きく聞こえたという印象がある。
中学生のころにはまったく興味がなく、これまでもあまり縁がなかったが、郷土の文化芸能を一度は見学したいと思っている。
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