5代藩主の綱紀が「蓮地御亭」を建て、その周辺を作庭した。これが兼六園の始まりである。6代吉徳がこの御亭を建て替えているが、藩政期後期には「時雨亭」と呼ばれていた。ここでは観月、観風の宴が開かれていたという。そして今の噴水前にあった「時雨亭」は明治の初めに取り壊さた。
現在の時雨亭は2000(平成12)年に、残されていた当時の平面図を参考に復元された。 木造平屋建ての数奇屋風書院造りで、江戸時代の建築洋式を知ることができるという。
10畳二つと8畳二つをつなげた広い座敷でお茶と和菓子を頂き、一服した。観光客と思われる20人くらいの人と並んで座ってお茶を頂いたが、ほとんど女性だった。私はお茶より「時雨亭」の中を見たいということだけだったので、安いほうの煎茶にしたが、他の人は皆高いほうの抹茶と生菓子だったのでちょっとみじめな思いをした。
座敷は茶席にふさわしい落ち着いた雰囲気があった。
座敷の横にあった勝手水屋
通常の来園者の休息の他に、茶会などの催しなどが開かている。
縁側に出ると、長谷池や庭が眺められた。長谷池の水の色は青々としてきれいだった。ところどころに遣水を引いた苔庭で、木々には雪吊が施されていた。
ここに流れ込んでいる遣水は、成巽閣近くの曲水を水源とする辰巳用水である。
この池を長谷池と呼ぶが、ここに明治時代に2代目金沢市長となった長谷川準也の私邸があったところだ。長谷川準也は明治に入り失業士族の救済するために、殖産興業をリードし製紙や銅器会社を設立し、金沢市の活性化に勤めた。また、準也は金沢再生のために尾山神社の神門の造営の企画もした。しかしこの兼六園の私邸疑惑で失脚したという。
「こども金沢市史」より
この辺りは、古くは加賀藩の武家屋敷、藩の武学校の経武館、馬場、調練場などがあった。新しく梅林、時雨亭ができるまでは、この辺りは庭園としての形を成していなかった。
長谷坂を上った「時雨亭」の前あたりに、私の高校生のころまで県立図書館があり、何度か利用したことがある。現在、県立図書館は本多町にある。
「実録石川県史」より
より大きな地図で 時雨亭 を表示