2022年11月6日日曜日

金石・粟ヶ崎歴史探訪(3)粟崎八幡神社

 金石・粟ヶ崎歴史探訪(2)金石 本龍寺の続きで、その後金石からバスで粟崎に行った。

粟崎は私の子供時代に電車に乗って海水浴場に行ったのを覚えているが、それ以来ではないだろうか?まず「粟崎八幡神社」を訪れた。粟崎地区は粟ヶ崎公民館の館長が案内してくれた。



















由緒は、当神社はもと延喜式内小浜神社境内摂末社なるが、明徳年中小浜神社境内より当地に移転造営される。藩主前田家累代の崇敬厚く数度の奉幣及社殿造営修理あり。明治6年8月石川県より小浜神社付属社に取り決められる。明治14年2月22日村社に列格、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定さる。当神社に境内末社榊神社あり、祭神天照大御神を祀り、寛永15年6月前田利常粟崎村民の信仰の趣を以て、勧請社殿造営さる。また境内末社事比羅宮あり、大国主神、事代主神二柱を祭神とす。天明4年勧請境外摂末社なりしを明治35年境内に移転造営する。(HPより)


















拝殿前には「八幡宮」の立派な扁額が掲げられている。また「御神燈」がいくつもぶら下がっていた。


















拝殿より本殿を見る。この神社は、加賀藩政の昔より、粟崎村の信仰を以って海上安全の勧進を勧めている。





「パンフレット」より










拝殿の中には多くの絵馬が掲げられていた。この絵馬は、北前船の安全を祈るもので、素晴らしいものがたくさんある。拝殿に入り上方には大きな絵馬が掲げられているが、これは「太閤記」で、1861(文久元)年 奉納者:木谷藤右衛門 製作者:松波景栄で日吉丸出生から関白太政大臣に任ぜられるまでの出世物語絵馬、加賀藩ゆかりの狩野派佐々木泉景の門人で4人扶持加賀藩士の松波景栄の作である。
































こちらの絵馬は「源平合戦図」は、奉納者・作成者不明で、源平盛衰記の源義経が頼朝の命を受けて木曽義仲を討伐、義仲の奥方山吹御前が一子駒若丸と共に落ち着く物語を背景に一の谷合戦までを描いている。当神社所蔵絵馬で一番古いもので235年前の一面という。


















寳福丸の絵馬は1831(天保2)年で、奉納者:辻屋栄次郎 製作者:杉本勢舟
当時大阪を拠点に船絵馬師の集団があり、吉本派と杉本派が二分していた。この船絵馬は杉本勢舟の落款が入ったものでは日本最古のものである。


















この神輿は明治7年に能登の七尾の中嶋孫左衛門という錺職人が一生一代の作品として年月をかけ、金、銀、珊瑚、赤銅造りの豪華な装飾を施したものを当時の価格753銭で購入したもので、豪商木谷家をはじめ船頭衆、村民の寄付で賄うことになった。
最近は、秋季例祭でこの神輿や榊神輿、子供神輿、悪魔祓いなど多くの出し物が粟崎全町内を一日かけて回るという盛大な祭りに使われる。







「パンフレット」より
















下図の白い獅子頭は、1841(天保12)年に加賀藩名工武田夕月作のものである。









「パンフレット」より












紫獅子頭は、1825(文政8)年荒木乗作作で加賀藩主から拝領したものである。額には菊の御紋が埋め込まれている。








「パンフレット」より