野町界隈(1)の続きで、「川北整形外科医院」の横を曲がると、元の「諸江屋」さんの家の前に「旧三間道」の標柱が立っている。「上つるぎ道 下北國道」を描かれている。この標柱は、昭和43年の町名改正の折に、諸江屋初代以来住み続けた町名三間道が野町1丁目に替わるときに、「旧三間道」の名を惜しんで、店の前に戸室石の「旧三間道」の標柱を建てた。
蛤坂が土砂崩れで通行止めになった期間は、幕府巡見使を迎え、三間道をとおって北国街道に出て、城下に向かうルートとして使われた。
以前は、ここに諸江屋の店があったようだ。下図の左下に「旧三間道」の標柱が見える。諸江屋の先祖が落雁屋としてこの地に移り住んだのが、1849(嘉永2)年という。初代畑野嘉平は足軽から内物屋(落雁屋)を志し、京都大徳寺御用達の亀屋某からその製法を学び、後に石川郡諸江村住んだようで、諸江姓もここから出たようだ。落雁というのは、糯(もちごめ)を原料とした炒粉を糖蜜で固めて木枠に入れ、方形にした総称である。本願寺5代綽如上人が北陸へ巡錫の折、この菓子を供されたところ、白地に黒ゴマが点々とあるのを見て、雪の上に雁の落ちるように似ているので落雁と付けた言い伝えられている。
家の前に「五木寛之」の金沢の思いを描いた「加賀路」という文章が額に描かれていた。
さらに右手には「少林寺」というお寺がある。臨済宗で開山は千岳宗じん禅師で、1638(寛永15)年に伝馬町に小庵を結び、それを少林寺と名付けた。1646(正保3)年に
現在地に移り、1653(承応2)年に3代利常から大きな寺院に建て替えるよう命じられた
千岳禅師の隠居所でったという。。
ここは三十三観音巡りの第二十七番所である。
鐘楼の銘文には「冶工 宮崎彦九郎義一」と刻まれているが、初代「宮崎寒知」であり、鐘楼のほか、茶の湯窯、仏具など数々の明器を残している。
さらに進むと「米永仏壇店」の看板がかかった町家があった。1階は古めかしい木戸が何枚も並んでいた。