2022年6月11日土曜日

成巽閣(2)つくしの縁庭園 松の間 群青の間

 成巽閣(1)飛鶴庭 清香軒の続きで、さらに内部を見る。


「万年青の縁庭園」は、真隆院のご寝所である「亀の間」から万年青の廊下に面した縁側から眺める観賞用の庭園で、地形の起伏や植栽、曲水で表現された深山幽谷の景が特徴である。辰巳用水の分水のから流れる落差を付けた渓流を表現した曲水があり、水音が聞こえるように工夫されている。対岸に大小の築山が作られ、その脇に植えられた五葉松や赤松があり、中央の伽羅僕は万年を経た亀を表し、吉祥の象としている。











「つくしの縁庭園」は「飛鶴庭」から続く庭で、柱のない長い廊下に面した縁から眺められ、縁先には広い空間がとられていることから開放的な印象を与えている。雄松、五葉松、八汐、楓、紅梅などが配され、その合間を縫うように辰巳用水からの分流がゆるやかに流れている。

























「つくしの縁庭園」を眺める縁側の中には「蝶の間」があるが、母上のための「御居間廻り」として使われた。この部屋には、正面に床の間と違い棚を並べ、床の間の右側の地板には棹の1枚板が使われている。今回は掛け軸の絵は「二の丸御殿平面図」が掛かっていた。


















その裏側の「松の間」は、ご休息の間として使われた。書院障子の腰板にはオランダ渡来の花鳥焼き付けのギヤマンがはめ込まれている。ヨーロッパのガラスは、1551(天文20)年ザビエルによりガラス器や鏡などが初めてもたらされたビロードとして大きな刺激となった。その後、技術は長崎から大阪、江戸へと伝わり、幕末にはギヤマンという切子ガラスが作られ、薩摩、長州、佐賀へと広まったという。


















床の間にかけられた歌は、真隆院が多くの歌集を残しているが、そのうちにひとつであろうか?
























成巽閣の2階の廊下、天井、雨戸であるが、ここにある部屋は1階の部屋とは全く異なり「数寄屋風書院造」となっている。母上のためというよりも、珍しい、派手者好きの13代藩主斉泰の「遊び心」の部屋ではと思う。西洋ではいろいろあったが、日本では初めてという「噴水」も同じだ。


















「群青の間」は、天井が折上天井で素地は杉柾を目違いに張り、蛇腹および目地には群青、壁は紅殻色で、色鮮やかな部屋である。群青はウルトラマリンブルーという顔料を使用しているが、斉泰が長崎よりフランス人から買い求めたものである。このウルトラマリンブルーはフランス人がアフガニスタンの岩石・青砂石(ラピスラズリ)を使って開発したもので、日本では
最初かまたはそれ近いものであるという。


















隣にある部屋は「群青書見の間」で、1畳の上段を設け、付書院の内側に机用の板があり、両側に火燈窓が付けられている。また天井には杉柾が張られ、蛇腹と目地には白群青、壁は紫、床壁は鉄砂の黒色となっている。
























2階からはまだ新しそうな杮葺きの屋根がはっきり見えた。細かい板材が葺かれているのが分かる。



















杮葺き屋根の原形が展示されていた。ここの屋根はさわら材であつさが3mm、幅が約30㎜の板を3cmずらしながら葺きあげるという。またこれを打ち付ける「竹釘」の太さが違う2種類が展示されていた。















成巽閣は、今の3倍の広さがあったというから、当初はすごい豪勢な建物であったことが想像される。でもそのうちの中枢部は、そのまま残っているというし、9か月で成巽閣を建てたというから、多分竹沢御殿の中枢部をそのままの状態で建てたのではないかと思われる(?)。竹沢御殿の平面図はあるが、どんな部屋だったかの図は見たことがないので分からないが。