2021年4月9日金曜日

旧新町界隈

 今回は、尾張町通の1本裏手の細い道の「旧新町」を歩いた。手前側が「下新町」で、奥のほうが「上新町」である。


この通りの入り口の向かい側に、非常にきれいに改修された町家がある。以前は「壽屋」という精進料理の料亭だったが、すっかり店構えが変わっている。看板がなにもかかっていないが、中はどんな風になっているのだろうか?




















横には漆喰の塗られ下のほうは赤戸室で、その上は笏谷石の石板が貼られた大きな蔵がある。この建物は、もと羽二重問屋として利用されていたものを、昭和8(1933)年に購入し、精進料理「壽屋」としたものだ。



















新町の通りを歩いていくと、左手に立派な町家がある。2階は以前と変わらないようであるが1階は以前は木造の長い格子窓があったと記憶しているが、今は重厚なつくりの車庫かな?



















建物の真ん中には、昔からの「大戸」がそのまま使われていた。実は、私が幼稚園の時ここに同級生がいて、その当時にこの建物の中に何度か入ったことを覚えている。すごい大きな家だったという印象がある。現在は(株)石谷となっているが、以前は香林坊の裏の映画街にあった「金沢松竹会館」の社長などやっていた人の家だと聞いたことがある。



















石谷家の向かいにも小さな町家がある。入り口横の板塀には鉄輪のようなものがはめ込まれているが、なんだろう?



















さらに橋場町方面に進むと「清水家住宅」があり、明治後期の建築で高二階形式の町屋がある。二階は背が低いが、軒の背がい構造となっている。雨除けを持つ出格子、重厚な二階軒椀木がある町家である。



















さらに「石崎商店」は「favori」というレンストランとなっているが、明治20年ごろの建てられた町家である。中央に玄関を持つ珍しいもので、なかのトオリニワはしっかりとした木組みと漆喰壁で構成されている。高い吹き抜けになっており上の天窓から明かりを入れている。



















商家の離れとして建築されたもので、明治後期に建てられたものだという。当初は尾張町本通りに面した本家と棟続きであったという。玄関の前の両側の柱は小庇を含めて少し張り出している。2階にも小庇とともに出格子になっており、壁は朱塗りになって粋な町家の風情を醸し出している。

























角の所には「旧新町」の標柱が建っていた。藩政初期からの町名で、尾張町に家屋が増え、町地が狭くなったので、新しく町立てされたため、この名がついた」とあった。
























この先は「下新町」で、そん先に泉鏡花の生誕地や久保市神社などに通じている。鏡花の関連で「神楽坂」と姉妹町として協定を組んでいる。
























さらに歩いていくと大手門からの道のどん詰まりにある「高田医院」の隣に創業120年の金箔屋さん「カタニ」がある。ここでは「金箔貼り」の体験が手軽にできる店として紹介している。「ひがし茶屋街」にもいくつかあるが、ここは少し離れているので穴場かもしれない。金箔貼りセットとマスキングテープあれば自宅でもできるという。

店の隣の町屋の玄関を改造して、いろいろな色の金箔のオブジェが並べられていた。金箔はゴールド色だけでなく1号色から4号色、24金色のほかに銀箔、プラチア箔などもある。金箔は金・銀・銅の混合で作られるが、その配合の違いによって赤っぽい色や青っぽい色のもなるという。














その隣のレンガが使われたレトロな洋館の建物「沢田医院」があるが、この向かいの駐車場の所に、昭和初期には、あの徳田秋声が姉の葬儀に帰郷した際の出来事である「町の踊り場」の作品に出てくる「ダンスホール」があったという。