今回は、3か月くらい前に「小立野界隈」を歩いたが、この辺りには前田家ゆかりの寺院の中心で、藩政期には非常に大きな敷地があった三つの寺院がある。そのうちの以前に「天徳院」と「経王寺」訪ねたことがあるので、もう一つの小立野の三大寺の「如来寺」に行った。
天正元年(1573)岌台文公(きゅうだいぶんこう)上人が越中増山に創建したことにはじまる。前田利家に従い高岡に移った後金沢に移り、当初は卯辰山に所在した。元和2年(1616)、3代藩主利常は、正室の珠姫が祖父徳川家康の位牌を当寺に祀ったことから、寛永11年(1634)に霊屋を建立しその位牌を安置した。寛文2年(1662)に寺地を小立野台に移し、5代藩主綱紀が生母清泰院(せいたいいん:徳川光圀の姉)の位牌所としたことから、以後、徳川家の家系に属する前田家の位牌所として確立した。伽藍喪失後、文化10年(1813)12代斉広により現代の御堂が再建された。
山門の扉には、「葵の紋」と「梅鉢紋」が貼られていた。
本堂は、正面桁行柱間9間・梁行柱間9間、入母屋造平入、桟瓦葺きで、正面中央に向唐破風(むかいからはふ)造の向拝(こうはい)を付けている。小屋組に箱だけが残り棟札はないが、構造形態や細部様式から、寺伝に伽藍再興とある文化10年(1813)頃の建立と推定されるという。内部空間の立ちが高く、江戸時代後期の浄土宗本堂の発達した典型的な姿を示している。大規模な修理をしておらず、再建当初の姿を示しており、金沢の江戸後期の寺院建築の遺構として重要な建築であるという。
このお寺のお宝には、「絹本着色阿弥陀三尊如来図」や「梨子地高蒔絵説相箱」(漆工)などがある。
本堂前の境内には、16代当主前田利為の「お手植えの松」があった。
その横には、高さ19m、幹周り約2m、枝幅17mという「金沢市指定保存樹」のクロマツがあった。
まだ作られて新しそうな「法然上人像」が置かれていた。