2020年10月11日日曜日

如来寺(2)

如来寺(1)の続きで、鐘楼の前には、兼六園の山崎山にもある「蓮華灯篭」と七福神の一つの「福禄寿」(?)の石造物が置かれていた。

























本堂横の奥に入ると「如来寺石造物群」が置かれた場所があった。平成になってから境内の道路の再舗装にあたり、古い石板に代えて、新しい石板に代えた。その際、古い石板を利用して地蔵尊を作り、人々の福祉を祈願することとなった。
如来寺住職吉田氏の指示により門徒が競って地蔵菩薩を自らの手で小刀や鑿を巧みに使って作成し、寺へ奉納した。
これが如来寺の地蔵群で、ひとつひとつに作者の願いが込められている。上は赤戸室で、下の写真は青戸室で作られた地蔵尊であろうか?

石仏は開眼供養され、万人の祈りの対象として如来寺墓地に安置され歴代和尚によって末代回向供養される。
一つ一つの地蔵尊の顔も違い、面白い顔のものもある。そういえば私の以前のテニス仲間もここで地蔵尊を何か月かかかって作ったことを聞いたことがある。
広い墓地には多くのお墓が並んでいた。
赤戸室で作られたお墓の「久徳尚則」は14代藩主慶寧の近習で尊王攘夷論を説いた。元治元年の「禁門の変」で藩の尊王攘夷派が弾圧されたとき、尚徳は能登島に流刑となった。妹の「筆」は慶寧の側室となり、前田家15代当主利嗣の生母である。
「吉田長淑の墓」があるが、長淑(1779~1824)は加賀藩が江戸で登用した我が国初の蘭方内科医で、文政7年にかなざわで麻疹を発症した12代藩主斉広の治療のため、金沢へ急行するも無理と過労が重なり到着後まもなく没した。