2020年6月24日水曜日

小立野界隈(2)小立野小学校 金沢商業高校 鶴間坂

小立野界隈(1)の続きで、その後「天徳院」の裏に当たる「小立野小学校」を通った。この付近は閑静な新しい住居が多い中で、ちょっと古風な家があった。「池坊 いけばな」を教えている所のようだ。



















「小立野小学校」は、1871年に「飛梅小学所」として開設されて、百々女小学校などを経て、戦後1947年に金沢市立石引小学校として改称され、1959年に石引・崎浦小を合併して「小立野小学校」が創立された。いくつかの建物があり、2階建てで手前のは「中高年棟」と「交流棟」で裏に広い運動場がある。私が通っていた昔の木造の小学校の校舎とは比べものにならないくらい立派である。



















「金沢商業高校」は、1900年に「金沢市立商業学校」として開校した。昭和2年の彦三の大火によって燃えてしまい、彦三5番丁にあったのを現在地に移ったという。戦後1948年に「石川県立菫台高等学校」に改称され、1959年に「金沢商業高校」となった。甲子園にも2度出場しているし、バレーボールなどが強いという印象がある。


明治37年ころの金沢商業高校(この校舎は彦三?)

校庭に「海の百万石」と謳われた、巨大な富を築いた加賀藩の豪商「銭谷五兵衛」の銅像があった。地元の商業系の英雄であるからであろうか?
























他に、「友情の碑」と「金沢菫台高等学校記念の碑」が立っていた。「菫台高校」は、太平洋戦争後の学制改革にともない、総合制、男女共学、小学区制の高校として、1949年にこのに誕生した学校である。当初は普通、商業、家庭の参加からなっていたが、実業高校独立の社会的要請を受けて、数年で現在の商業高校になった。以前いた会社の先輩の中に、1,2年は「菫台」だったが、3年は「泉丘」という人もいた。

































「金沢商業高校」の校舎の裏側の道沿いに、つつじや木々に隠れて、わずかな隙間から洒落た洋風建築らしき建物が見えた。
























その先を歩いていくと、長い坂に出る。ここが「鶴間坂」である。金沢の有名な坂はほとんど行っているが、この坂は初めてである。
























この坂は7,8度なので、「思索に耽る坂」としてはちょうどよい傾斜度で、これ以上になると息切れしてしまう。金沢の「サカオロジー」を描いた筆者はとそう呼んでいる。長い坂なので途中に一服できるベンチが備えられている。



















つづら折りに曲がると、片側は竹やぶや木々に覆われている。



















坂の途中に祀られている観音菩薩や地蔵さんの前には「鶴間坂」の標柱がある。「坂の上からの眺望がよく、加賀藩時代から詩歌を好む人が訪れ、ここを鶴舞谷と称していたのでこの名がついた」とあった。



















下の方は、両側に木々が茂り、昼間でも暗そうだ。
























杉の木の間を見ると、下の方に街並みが見えるが、昔は風光明媚で、古くから詩歌連句に謳われていた。その谷を鶴が舞っていったので「鶴舞谷」と呼ばれ、その谷を下りる牛坂を「鶴舞坂」と呼んだのが何時の間に「鶴間坂」となったという。



















この坂の途中に入母屋風屋根がいくつかある古風な家があったが、この長い坂の途中にどんな思いで家を建てたのか気になるところだ。