この「森家」は、代々四十物屋仙右衛門と称し、明治以降は名字を森とした。文政の頃より北前船で栄えた東岩瀬の廻船問屋の様式を残している屋敷である。特徴は、当地から積み出す船荷のため玄関から裏の船着き場まで、通り庭(土間廊下)が通じ、表から母屋・台所・土蔵と並んでいる。
母屋の「オイ」には暖炉が切られ、吹き抜けの梁・差物・帯戸などは豪快な見事なものである。雪の重荷にも耐える三段重ねの重厚な梁組で、能登のクロマツが使われているという。
座敷や控えの間を広げた大広間には、北前船で大きな富を得られたときに集められたものが展示されていた。
鴨居には、「東岩瀬町鳥瞰図」が架けられていたが、東岩瀬港と街並みや日満アルミなどの工場群などが描かれた「吉田庄三郎」の昭和11年の作である。佐渡島や東北、北海道なども書かれている。
梁の中央には「亀」をかたどった「釘隠し」があった。
天井には見る角度によって、龍の姿が現れるという樹齢1000年以上と言われるエドヒガンザクラが使われた独特の木目模様が素晴らしい。
座敷の床の間には、掛け軸や花瓶に花、香炉などが置かれていた。
「船箪笥」は船が転覆しても沈まないことから貴重なもの
が入っていた。
茶室は、ここも加賀藩ということから壁は紅殻色で、床の間には「船絵馬」が描かれた掛け軸が架かっていた。横には明治6年の大火に見舞われた後、取り入れられたという防火金庫があった。ここにはボランティアガイドさんが一生懸命説明されていた。
2階は「番頭部屋」(男性)や「女中部屋」(女性)となとなっている。
屋敷の裏にある土蔵には航海に使う道具や衣類が保管されていた。扉には漆喰で作られた家紋と龍の鏝絵が施されている立派なものである。この龍は火事などの災いを防ぐ願いを込めて左官職人が手掛けたという。
「北前船寄港地」が日本地図に描かれていたが、日本海側の特に北陸地方に多いのが分かる。金沢の金石や大野、粟ヶ崎そしてこの岩瀬地区もそうだが、最近「北前船寄港地」の多くが「日本遺産」の登録されている。