山門には、大小さまざまな「わらじ」が掛けられているが、健康・健脚祈願とともに足腰の病気の治癒を願うために納められたという。
門の内側には、誰が履くのだろうという大変大きな「わらじ」もかけられている。
開山は1522(大永2)年日仁上人の創建といわれている。当初は越中放生津にあったが、その後、2代藩主利長に従い、越中守山に移転した。1786(天明6)年に現在地に移った。本堂の不動明王は、10代藩主重教の主本尊で、重教が世嗣となった1753(宝暦3)年に重教の生母実成院から預けられたものである。
庫裡は、1886(明治19)年にここの22世に日道上人の代に武家屋敷3棟を解体し建築したものだという。座敷の柱は細く、加賀の武家屋敷の建築法の洗練されて、完成された形を残しているという。
泉鏡花の「夫人利生記」に「俗に赤門寺と云う。・・・門も朱塗りだし、金剛神を安置した左右の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。仁王門の柱に、大わらじ掛かっていて、稲束の木乃伊(ミイラ)のようにかかっている」と描いている。
ここには、鏡花の母方の実家中田家の菩提寺であり、中田家は代々加賀藩宝生流大鼓師を務めていたことから墓がある。
金沢は江戸時代から能楽の盛んなところであるが、武士のたしなみとして奨励した能楽の加賀宝生がある。その能楽宝生流家元宝生紫雪の墓がある。
また、加賀藩に仕えた波吉紅雪や諸橋権之進の墓もあり、「能寺」とも呼ばれている。