明治維新と石川県誕生150年(2)の続きで、西南戦争が勃発した1877(明治10)年前後には、全国の旧藩士らの明治政府への不平、不満は尽きることはなかった。旧藩時代の家禄が没収されて生活苦に直面したのが第一の理由だったが、中央・地方をとわず、政界・官界が薩長を中心とした藩閥に牛耳られていたことが、一層の不満をかき立てた。
金沢において士族の動きとして確認できるのは、表立っては「忠告社」で、県官の上層部を占めていた陸義猶(くがよしなお)や長谷川凖也、杉村寛正らが中心で旧藩士の参加が多く、内田県令も一定の好意を示していたという。しかし、岐阜県士族の桐山が代わって県令になるや、は意見が対立するようになったという。そして明治10年頃より忠告社の勢力は衰えていったという。
忠告社は一時は千人以上になり、寺町5丁目の「大円寺」に事務所を置いた
島田一郎は、杉村、長谷川などの忠告社が雄心壮気を喪失していることを憤慨して、意気投合する配下の党員を率いて、三光寺派を立ち上げた。そして、忠告社の結社式がある東別院に入ろうとした時に、杉村らに阻止されたという。島田らの「実力行使」を説く強行派を相いれなかったという。いずれにしても彼らの関心は西南日本の「不平士族」の動向と、政府の対外政策に注がれていたという。
島田一郎は加賀藩の足軽の子で、小さいころから目つきが鋭くて気性が激しく、けんか相手から「糞くらえ」と言われたら、相手の目の前で本当に糞を食ったなどいろいろなエピソードが残っている。そして壮猶館で学び、銃砲術を習得した後に戊辰戦争にも参加している。
三光寺派は、野町1丁目の「三光寺」で会合を開いていた。
こうした中、「佐賀戦争」、「秋月の乱」など不平士族の反乱が相次ぎ、ついに「西南戦争」が勃発した。島田らは待ちに待った崇拝者の西郷の挙兵だったが、彼らの奔走むなしく忠告社は決起せず、西郷は戦場に倒れてしまった。
この知らせを知って、挙兵の計画を一変して大官木戸孝允は西南戦争で病死したため、大久保利通ひとりに絞って暗殺を企てるようになったという。このころ島田の同志となったのが、長連豪(ちょうつらひで)であった。加賀八家の長家の分家筋で、いかにもおちついたインテリ青年の雰囲気を漂わせていたという。この二人は少数精鋭で要人暗殺計画へと猛進する。
このなかで、参加したのは島田、長のほかに、杉村文一、杉本乙菊、脇田功一と島根県士族の浅井の6人である。杉村は杉村寛正の弟で、脇田功一は初代の脇田直堅が2代藩主前田利長の正室永姫に育てられ、小姓頭となった脇田家の子孫である。
西郷下野後、大久保は文字通り政府の「大黒柱」であった。危機に直面した政府を立て直すために、参議、諸省卿兼任の原則を打ち出し、政府方針と行政との統一を求めた。内務省は国家安泰と人民を保護する所であり、内務卿は天皇への直接責任を負うことで、他卿より一段上に位置付けられ事実上の首相であったという。
5月14日の事件の朝、島田らが暗殺場所に選んだのは、紀尾井坂から赤坂御門にいたる大久保の出勤途上であった。北白川宮邸と壬生邸とに挟まれた人通りのもの静かな街路である。早朝に島田の下宿に6人が揃い、準備万端整ったところで紀尾井町に向かう。現場では、打ち合わせ通り長と脇田は何気ないふりし、島田ら4人は板囲いで身を隠して大久保を待ち伏せた。大久保は二頭立ての箱馬車に乗り、馬車は紀尾井町にさしかかった。この時大久保は政務の書類を見ていた。馬車が6人に現れると、馬の前足を刀で切りつけ馬を止めた。御者を刺し大久保をひきづり降ろした。一同はすかさず大久保に群がり、乱刀のもとに倒し、とどめを刺した。
ことが終わると一同は、赤坂皇居へと出頭した。知らせを受けた西郷従道が駆けつけた時には、すでに大久保は相果てたあとだったという。
暗殺から2か月後に、東京市ヶ谷で6人は次々と斬首刑に処せられた。島田を先頭に、いずれも堂々と死に臨んだという。島田らの墓は東京谷中の墓地にある。なお金沢には、島田をはじめ6人の名を刻んだ石碑が野田山墓地野田口の道路わきに建てられた。