2016年6月15日水曜日

尾張町老舗交流館(1) 金沢市街地図(幕末~現在) 加賀てまり

尾張町1丁目(旧今町)に続いて、大通りにある「尾張町老舗交流館」に入った。ここは、以前は「めがね屋」であったという。店内にはめがねが並べられていた「ショーウィンドー」の棚の枠が残っていた。


























今回は、ここで幕末から昭和初期の「金沢町絵図」(地図)が展示されているということで、金沢の町がどのように変遷していったかがわかると思い見に行った。
下図の「町絵図」は天保年間(1830~1843)のものとあるが、幕末の安政のころ(1850年代)までのものは、いくつか見たことがあり、武士の名前まで細かく描かれている。




















下図は1970(明治3)年の「金沢の町図」で、明治になって武士たちが藩から俸禄をもらっていたのが、藩がなくなり自分で仕事をしなければならなくなった過渡期のもので、武士の名前はなく、シンプルな絵図である。




















下図は、大正8年の「金沢市街地図」で、この年に金沢駅から公園下までの市内電車が開通しているが、電車を走らせるための広い通りができているのが分かる。しかし、まだ現在の浅野川や犀川の大橋ができる前の橋なので狭くなっている。城内には「第9師団」、「歩兵7連隊」、他に「出羽町練兵所」、「野村練兵所」などが記されている。




















昭和4年の「金沢市街地図」では、赤線と点で路線と停留所が記されていて、さらに市内電車が広がっているのが分かる。また昭和2年の大火の後にできた「彦三大通り」ができているのが分かる。




















下図の「金沢市街地図」は戦争真っ最中の昭和19年の珍しい地図である。城内には「尾山町」、「黒門町」の通りが記されていて、地図から見る限りどこが城内かわからず、そこに「陸軍」がいたことは分からない地図となっている。このころには「昭和大通り」や「南端国道」ができており記されている。


























現在の「金沢市の地図」と比較して、町名や通りや施設など、その変遷を比較してみるのも面白いものである。



続いて、ここの場所には金沢の伝統工芸の一つ「加賀てまり」がいろいろ並べられていた。徳川家康の孫で、3歳で前田家に輿入れした珠姫(たまひめ)が江戸から持参してきた「てまり」がルーツで、現在でも金沢で継承されている。金沢の東山(旧森下町)の「薬種商の綿谷小作」が保管していたというてまりが展示されていた。




















「加賀てまり」は糸を巻いて固めて土台の珠を作り、色鮮やかな五菜の糸を操り、四季折々に咲く日本の花をイメージした巧妙な幾何学模様を描くという。その糸や製作途中の「加賀てまり」も展示されていた。




















金沢では今でも、娘が嫁ぐ際に魔除けとして持たせる風習が残っている。玄関や床の間に飾れば、部屋が華やぎ、優美な雰囲気になる。