その後ろには、やはり湿地帯に咲く小さな黄色の花が咲いていた。
紫色の「ミソハギ」?か、「湿生園」の前に咲いていた。
「新丸広場」は現在のところ、建物が何もないので、石川門や三の丸などに比べて人の数がまばらである。
東側は少し高くなって芝生が盛り上っている。
大手門「尾坂門」方向を見る。「新丸広場」は金沢城公園の全体の約1/3の広さがあり、町中のこのような広いスペースがほとんど芝生だけになっている貴重な憩いの場所だ。
ここで、「新丸広場」の歴史を紹介する。
江戸時代の初期には重臣の屋敷があり、新丸の東側には、もと剣術の達人であった富田越後守重政の邸宅があった。その後、名前を由来とした「越後屋敷」があり、藩主が江戸に出向いているときには、ここで加賀八家などの重臣たちが寄りあって政務を進めた場所であった。
他に「作事所」、「下台所」や「割場」などがあった。「作事所」は城内外にある藩関連施設の建築や修繕などをつかさどっていた役所である。藩政期には城内建物のメンテナンスは石垣の修繕とともに大切な職務であったという。「下台所」は城内に勤務する藩士・足軽などの料理を作る場所であった。また、「割場」は足軽・小者などの仕事を割り当てる役所である。宝暦の大火以前には、藩主の武具などの制作にあたっていた「細工所」もこの新丸にあったが、その後、「堂形」の方に移った。この絵図からは「作事所」と「下台所」の間には堀があったようだ。
明治になって金沢城内には陸軍の「第9師団司令部」、「第7連隊」が入ってきた。そして、「新丸」には「第7歩兵連隊」の兵舎が立ち並んでいた。下図は昭和10年ごろの城内の写真
戦後になって昭和24年に金沢城内は「金沢大学」のキャンパスになった。下図は昭和24年の「金沢大学」の写真である。左側の広いグランドのあるところが「新丸」で、大学の建物は兵舎を利用していたようだ。また、広坂の旧四高の建物もまだ使っていた。私は家が近かったので、小学生のころはサマースクールに、中学生のころにはこのグランドで何回かソフトボールや野球をしに来たのを覚えている。
昭和50年ごろの「金沢大学」の写真で、すっかり鉄筋コンクリートの建物の変わっている。「新丸」のグランドの前の建物は「教養学部と理学部」の建物で、何とも懐かしい写真である。このころはドイツの「ハイデルベルグ」と世界に二つしかない城郭の中にあるキャンパスであった。