「金澤町屋を学ぶ会」(1)の続きで、市役所の職員の説明の後、「金沢学生のまち市民交流館」の「学生の家」の建物の中を見学した。
この建物は当主佐野久太郎氏の本家として1916(大正5)年に建てられたという。当時の佐野家は数多くの農地を所有した大地主で、米を保管する倉庫群や別荘を保有していたと伝えられる。
建物は主屋と土蔵のほか、表門と築地塀を構える。主屋は街の中心にありながら農家風の平面計画を持つ瓦葺二階建ての近代和風建築で、建物正面に、表わしの束・貫と黒漆喰壁で構成された大きなアズマダチに、その下にはキムスコ格子の出窓が付いていると玄関に「説明書き」があった。この建物は、創建当時の姿をほとんど変えずに現在地に建つ貴重な建造物という。私自身もこんなに大きな昔の農家を町中で初めて見た。
1階の土間には流しと井戸が残っており、案山子で当時働いていた人の様子を表現していた。長い梯子に登ってアマ(物置)にあるものを取りに行く様子。
1階の洋室は座敷から見る芸妓などの踊りの舞台として使用されていたという。その芸妓が使う三味線を掛ける台が置かれていた。
ここの主人が「ビリヤード」が好きだったので、板の間にビリヤード台の脚が載る部分に石が敷かれていたところを残してあった。
2階の縁側の天井部分やガラス戸の下方部分も手の込んだ作りになっている。
2階の座敷には、床の間の横の壁は三日月形に抜かれていた。
また、障子戸の上方の木の部分に「桐の文様」であろうか抜かれていた。この文様を彫るのも大変な技術がいるだろう。
座敷と座敷の間の上方の欄間の彫刻模様もすばらしい。
座敷の襖にはゴージャスな金箔が貼られた上に木々の葉に雪が載った絵が描かれていた。
この金色の襖の引き手には「七宝焼き」が付けられていた。「七宝焼き」は金、銀、銅や鉄などの金属の上に釉薬を乗せたものを、高温で焼成させたもので、美しい彩色を施すものである。そういえば、ひがし茶屋街の「志摩」の引き手にも「七宝焼き」のものがあった。柱の上方にもすばらしい形状の釘隠しもあった。
建物の中心にある明り採りのための吹き抜けの空間には、珍しく壁が美しいピンク色になっていた。
土蔵の入口の扉は何重にも段がついた重厚なものだった。
土蔵の内部の様子。2階もあり、かなりのスペースがあった。大地主であったというから、米俵の他に貴重なお宝も保管されていたことだろう。
ここは、学生と市民の交流の場として町中に建てられたが、大変すばらしい建物で豪華である。大学は金沢の郊外にすべてあり、どれだけ利用されているのか気になったが、これだけのものを市長肝煎りで作られたと聞いているが、是非、毎日のように有効に活用してもらいたいものだ。