「西福寺」は962(応和2)年に奈良県に創建され、その後、今の金沢市観音堂に移ったという。
8代目が菅原家出身であったため鎌倉時代ごろから菅原家由来の「梅鉢紋」を使い続けているという。前田家が道真の子孫であると名乗り始めたのは3代前田利常のころからであるから、前田家より以前に「梅鉢紋」を使っていたことになる。
それで私たちにお茶と一緒に出されたせんべいにも「梅鉢紋」が描かれていた。
西外惣構掘は戦いに備えて1610年に利常が篠原一孝に作らせたものであるが、この辺りは金沢城下と宮腰(金石)の港を結ぶ宮腰往還と西外惣構掘が交差する交通の要所だったので「升形」を作った。「それにともなって西福寺もこの地に移されたのでは」と住職が言っていた。
しかし現実には城下を守る「升形」に敵の大軍が攻め込むような事態は起こらなかったので、堀は次第に埋められていったという。
平成に入って、この辺の発掘作業がなされ外様が分かってきたので升形の立体模式図もできた。
埋蔵文化財センターより
埋蔵文化財センターより
金沢では旧北国街道の出入り口にあたる香林坊橋や枯木橋にも升形があったという。しかしその場所は今も交通の要衝にあるので升形の跡は道路の整備とともに消えたという。
ここは以前あった住宅も壊され、空地となっていたので升形の再現をするということになったが、ここの住職の話によると「予算がないのでたち切れになった」と非常に残念がっていた。
ここは金沢駅に近く、近江町市場や金沢城を訪れる観光客の通り道になるので、作ればよかったのにと思う。
ここは金沢駅に近く、近江町市場や金沢城を訪れる観光客の通り道になるので、作ればよかったのにと思う。
また、ここの境内に「金沢一中・泉丘高校発祥の地」の記念碑が立っていた。文字の上に金沢一中と泉丘高校の校章が彫られていた。
去年の創立120周年に記念して立てたというから1893(明治26)年になる。西福寺の境内の一角(今は隣接の林病院)に東別院と西福寺が設立し、私立大谷尋常中学校が県立尋常中学校となったのが金沢一中のルーツだという。明治30年には「金沢一中」となって本多町に移ったという。
尖塔をもった建物が昭和30年ごろまで講堂か礼拝堂として残っていたという。
その後、住職と中学時代と高校時代の時の懐かしい話に花を咲かせた。話が終わった後で本堂の中を見せてもらった。
特に本尊の前上にある「欄間」には大変細かい木彫りがされており、金箔が施されすばらしいものであった。「今はこういう細かい木彫りをする職人はなかないない」と住職は言っておられた。
また本堂の傍らに、この寺に「弥七の豆がらたいこ」という民話があり、その民話にまつわる「たいこ」と「弥七の木彫りの像」が飾られていた。
金沢市の小学生たちが学校から団体で見に来るといっていた。
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