幸町、菊川界隈(1)の続きで、その後、少し歩くと藩政時代の広見である「川上広見」に出た。ここは六つの通りに分かれていた。こんなに分かれているところも珍しい。
広見の前に銭湯とお寺「覚源寺」が並んでいた。町中の銭湯は珍しいが、現在もやっているのかよく分からなかった。
「覚源寺」の横の通りを歩くと、「永井善隣館保育所」があり、その前に「永井柳太郎」の銅像があった。
その隣には、ディーサービスや菊川社会福祉評議会などが入っている「永井善隣館」の建物があった。
「永井柳太郎」については、このブログでも何度か書いたと思うが、永井道雄元文部大臣が実父で、戦前に拓務、逓信、鉄道の各大臣を務めた雄弁政治家であった。わずかにびっこをひき、ステッキを片手に大衆に語りかけるポーズがトレードマークになっていたという。郷土の英雄で社会福祉活動にも力を入れて、今でもこのように「善隣館」が引き継がれている。
その横には、昔の家をきれいに改装された「足軽の家」があった。閉まっていて中に入ることはできなかったが、「旧早道町」にあった「足軽の家」は2軒長町に移築されていて、一般公開されているので、そちらの方は何度か中を見たことがあるが同じようなものなのかどうか?
ここは、今、地域のサロンなどにも利用されているらしい。
この辺りは藩政期に「主馬町」(しゅめまち)と呼ばれ、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったことからその名が付いたという。小立野台地に住んでいた篠原一孝の娘を本庄主馬宅に嫁に出すということで「嫁坂」を作ったということで有名だ。
近くに鞍月用水があり、満々と水が流れていた。用水に架かるしゃれたデザインの橋もあった。
「川上広見」のほうへ戻り、犀川方面に歩くと浄土宗の「法然寺」がある。ここで有名なのは何といっても「お銀と小金」の話だ。
お銀と小金は異母姉妹で仲が良かったが、継母はお銀ばかりいじめていて、しまいに深い穴に突き落として死なせてしまった。仲の良い小金も哀れんでその後穴に飛び込み亡くなった。お銀を憎むあまりかわいい小金まで殺してしまった継母は涙を流し後悔し、懺悔し自らの髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たという。
その「小金形見地蔵」が境内にあった。この地蔵は泉鏡花の名作「照葉狂言」の題材にもなったという。
また少し歩くと藩政期末に建てられた「鍋屋」という町屋があり、中の部屋は代々染物屋の特徴があるという。この辺では珍しく改修されたきれいな建物が残っていた。
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