下菊橋から桜橋方面
大通りの向こう側を渡ると「菊川町小学校」がある。「菊川」は犀川の雅名が菊水川といったことからこの名が付いたという。犀川は普段は静かだが、いったん大水になると暴れ川になったので、いつからか犀川になったという。犀川は全国にいくつかあるが、どれも暴れ川のようだ。
藩政期に加賀藩の政策として当初、芝居、遊興を禁止していたが、町の商業活性化の一環として1818(文政元)年に芝居小屋が、1820(文政3)年の12代藩主斉広の時に茶屋街が公認され、この「菊川町小学校」のところに芝居小屋が、また、犀川、浅野川付近に茶屋街が設置されたという。
芝居小屋は全国的に飢饉となった1833(天保9)年に一旦廃止されたが、文久(1861~64)ころに再興された。文政の頃には名優とうたわれた歌舞伎役者で宮腰出身の初代中村歌右衛門が出た。
金沢市史より
信号のある小路に入ると趣のある古い建物の「平木屋旗店」があった。店と向かいにある建物は登録有形文化財だそうで、店の前面にある蔀戸(しとみど)が残っている江戸末期の町屋様式の建物で、母屋のほうは足軽小頭の住居だった。昭和のはじめにこの平木屋が買って住居と仕事場としてそのまま利用しているという。旗や纏などを染めている染物屋だ。店の人と話をしたかったが来客中のようで遠慮した。
染物の工程の中で「糊落とし」という作業があるが、「友禅流し」と同じで水の流れを利用して行われる。これを母屋の裏にある鞍月用水を使ってやっているという。
また、少し歩くと「藤棚白山神社」があった。拝殿の前には藤棚があり、4月中旬から5月上旬に来れば藤のトンネルをくぐりお参りするということになる。
境内には藤を見て詠んだという江戸時代の俳人 堀麦水の句碑「門には侍 籠のあけびや 藤の花」があった。当時から花見客で賑わっていたのだろう。
神社の近くに店の上の看板に天保年間に創業で「ゴリ」と書いてある「白山屋」という店に入った。
おかみさんが出てきたので店のことやこの辺りのことについて聞いたが、非常に親切に対応してくれた。ここでは「ゴリ」の佃煮や「くるみ煮」などを専門に売っているという。昔はすぐ近くの犀川で採れたものだが、今はいなくなって琵琶湖で採れるものを仕入れているという。
そういえば私の子供の頃はよく「ゴリ」の佃煮を食べたものだが、最近はあまり口にしていない
店内には、大正時代のものという店の紋の木の箱(何というものなのか?)や提灯それにどこどこの料亭に出したことなどを記入した帳簿が下がっていた。
次にその横の小路にある菓匠「百万石花園屋」の店に入った。
ここは創業40年くらいだという。多くのおいしそうな御菓子が陳列されていた。他にも店を出しており、後で家の者が言っていたが、ここのお菓子は私の近くのマーケットでも売っているとのことだった。
ここで今一番売れているという「萩だんご」と「栗饅頭」を買った。
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