前回の続きで、国泰寺の前を左に曲がると、グーンと広くなった道に出て開けた感じになっている。
ここは「六斗の広見」と呼ばれ、藩政時代に火事の際に延焼を防ぐための町づくりの一つとして作られた。金沢に何ヶ所かある広見の中でも最も広い。この辺は寺が多く道が狭いところが多いので、この広さは異様に感じるであろう。
六斗の広見沿いに「泉野菅原神社」と「玉泉寺」がある。
「玉泉寺」は、2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の位牌所であり、父の織田信長を祀っていた。藩政期は現在の「玉泉寺」、「泉野菅原神社」、「旧野町小学校」となっている広大な敷地で、あの瑞龍寺(高岡市)を造った名工の山上善右衛門が手がけた大伽藍があったが、1871(明治4)の火災で焼失してから再建されていないという。
現在はプレハブのような建物が残っているだけで、境内も荒れ果てているようだった。裏に幕末にフランスに留学し、マッチ製造で有名な「清水誠」の墓があった。奥には五輪の塔の「玉泉院」の供養塔と思われるものがあった。
六斗の広見を右の曲がると曹洞宗の「玉龍寺」があるが、ここは前田利家の長女の幸姫の婿の前田長種の菩提寺である。長種は従五位下対馬守に任ぜられていて、大手町に前田対馬家の屋敷があった。
現在は、「野町保育園」が横に併設されていて、境内いっぱいに子供たちが遊べるようにアンパンマン、どらえもんや乗り物があった。
お寺としての仕事よりも、保育園の方に力を入れているように見えた。
続いて「月照寺」がある。ここは前田利家の長女幸姫(春柱院)の菩提寺で、3代利常より寺地が加増され大伽藍を建立したが、六斗の大火で類焼した。現在の建物は前田家の一部を移転して再建されたという。
寺の山門前や中に石仏がたくさん並んでいたが、これは卯辰山の33体と鶴来街道の33体の観音仏を集め安置したものであるという。
また、明治時代の初期に失業士族を集め、政治結社「盈進社」を結成し、士族の救済を図ろうとした「遠藤秀景」の大きな碑が建っていた。
また、その先の左側にきれいな蔵と町屋の建物があった。ここは「今川酢造」といって、酢を専門に造り売っているところだ。1923(大正12)創業というから老舗である。
ここの店員に聞くと、建物は金沢工業大学の建築課の先生からアドバイスを受けて、金沢市から助成を受けて150年前の町屋を改造したという。
蔵の中にギャラリーがあり、いろいろな酢の商品が展示されていた。「米酢」、「カニ酢」、「ゆず酢」などあったが「ブルーベリー酢」を買った。家で「ヨーグルト」や「焼酎」に入れて飲もうと思っている。
また少し歩くと、右側に加賀八家のひとつの「長家」の菩提寺の「開禅寺」がある。
ここの境内に濃い緑色の苔がきれいに生えていた。
次に、これもまた古い150年前の建物の中で作っている「かぶら寿司」や「漬物」で有名な「四十万屋本舗」があったので入った。
ここは明治8年創業で、当初は味噌、醤油などを手がけていたが、時代の流れで金沢の家々に伝わる味を手本として「かぶら寿司」や「金城漬」などの漬物を作って売っているという。
この日は大変暑い日だったので、店で売っていた「加賀いり茶のジェラート」を買って、店で一服して食べた。
家の中の天井を見上げると、大きな柱やはりが何本もはられていた。昔の大きな家の作り方はさすがすごいと思った。
重厚そうな箪笥が置いてあったが、これに大事なものを保管し、火事などがあったときにすばやくに持ち出せるように荷車に載せられるようになっているもので、明治・大正のころのものだという。
冬には自在鉤が吊るしてあった下の畳敷きのところで、近所の人などを集めて「かぶら寿司」教室で造り方を教えているという。
ここの旧鶴来街道沿いは人通りが少ないが、金沢の名店街の中のめいてつエムザ、アトリオや百番街にも店を出している。
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