紫錦台中学の向かい側には、昔からあった「松原病院」がある。
ここは精神状態が正常じゃない人が入ると聞いたことがある。今は建物も大きくなり、
この近くに他にも建物があった。
最近では、高齢者も多くなり、認知症の人も多くなっているので、こういう関係の病院は、ここだけでなく多くなってきている。私もいつ起きるか分からないので注意をしなくては。
紫錦台中学側には辰巳用水が流れている。ここから兼六園に流れ込んでいる。
その脇に「旧飛梅町」の標柱がある。ここの付近に前田対馬守長種にはじまる
藩の老臣1万8千石の前田氏の下屋敷があった所であるが、同家の家紋「角の
内梅鉢」からその名は付いたという。
また少し歩くと、北陸学院の中・高校の学校がある。以前、女学校だったところ
が何校かあったが、だんだん男女共学になっていってここだけ残っていたが、
数年前についにここも男女共学になってしまった。これも少子化による時代の流れか。
その学校の前に旧ウィン館がある。ここはアメリカ人宣教師のトーマス・ウィンが設計し、
明治21年に建築された由緒あるものだ。現在は「北陸学院資料館」として受け継がれ
ている。中に入りたかったが、閉まっていた。平日の午前9~12時に開いているという。
アメリカ人のメリー・Kヘッセルが明治18(1885)年に本国教会の資金援助のもとに
私立女学校(北陸学院の前身)を石川県で初めて開校したという。また。キリスト教に
基づく教育を通して女性の地位向上を図ったという。
その横には古めかしい黒い屋敷塀があるが、、ここは加賀八家の奥村宗家の
上屋敷であった。
ここの初代永福(ながとみ)は1584年佐々成政軍との末森合戦だで末森城を
死守した。また11代の栄実(てるざね)は13代藩主斉泰に重用され天保の改革
を推進した。
この塀の中は今は「金沢医療センター」という病院になっている。
以前は「金沢国立病院」と言っていて、私はそちらの方がなじみが深い。
私はここに入院していた家族や友人などを何度か見舞いに来たことがある。
戦前は「衛戍病院」といって軍人のための病院であった。
今日の散歩時間、石引通り(1)、(2)、(3)2時間40分、歩数5300歩でした。
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