湯涌温泉(3)温泉街②の続きで、「やましたや」の斜め向かいに「湯涌温泉 総湯」がある。ここに来れば誰でも入れるので温泉好きの金沢市民も、よく行っている人も多い。
養老二年(718年)近郷の農夫が泉に身を癒す白鷺をみてこの温泉を発見したと伝えられています。藩政時代は、加賀藩の歴代藩主を始め一族が 常用し、その効能によって治癒本復することがしばしばあり、これを賞され湯宿の主人に名字帯刀が許されたと言われます。大正の初めドイツで開かれた万国鉱 泉博覧会に当時の内務省の推薦により日本の名泉として出展、泉質の良さが認められました。以来、文人墨客の来湯が繁くなり、特異な美人画で知られる大正の 詩人、竹久夢二が愛する女性彦乃を至福の日々を過ごした「ロマンの湯」としても知られています。(ホームページより)
総湯と夢二館の間の階段を上ると、途中に「足湯」がある。温泉街のそぞろ歩きを楽しんだ後、足湯に浸かってのんびりするのもよい。
さらに上がると、赤い鳥居が並んだ「湯涌稲荷神社」がある。
この神社の「狛犬」は、珍しく花が描かれた前掛けをしていた。
薬師堂はガラス張りの囲いがなされていた。
この辺りは、「夢二」が歩いた道として紹介された道がある。湯涌に「夢二式美人画」で一世を風靡した詩人画家・竹久夢二が滞在したのは1917(大正6)年の秋のことだった。金沢市の金谷館で開催された画会が大成功し、恋人・笠井彦乃と病後療養が必要な次男・不二彦を伴っていた。夢二と彦乃はこの地で愛情を深めながら、日々スケッチや制作に励み、薬師堂裏から古道を通って湯涌河内まで足を延ばして人々と交流していた。湯涌の素朴で力強い自然とそこで育まれた人情に魅かれ、夢二は画室を建てたいと洩らしたと彦乃が記している。(パンフレットより)
明治に入っても湯涌温泉は明治19年刊行の「日本鉱泉誌」に紹介され、夢二たちが滞在した大正中期には旅館が三軒あったという。
薬師堂の境内には「源泉臼」が置かれていたが、718(養老2)年にこの山里に1羽の鷺が舞下り動く気配がなかったので、近寄って見てみると湯が湧き出ているのを知った。すぐに井を掘り高温多量の薬湯を枠の中に石臼が溢れ、昼夜を問わず出てくる霊泉を見て、人々は感嘆して里の名を「湯涌温泉」と名付けたという。
後に加賀国3代藩主前田利常、6代吉徳は、いずれもこの石臼より汲んだ霊湯を飲浴し、思い患いも治ったとか。
湯涌での歌十数首のうちの一首「湯涌なる 山ふところの小春日に 眼閉ぢ死なむときみのいふなり」が歌碑として刻まれている。
「手水鉢」
「御神木」
さらに階段を上っていく長い道があり、片道540m、往復50分かかる散策路が続いている。