2023年7月1日土曜日

東京 深川(2)富岡八幡宮

 東京 深川(1)深川不動堂の続きで、その後歩いてすぐ近くにある「富岡八幡宮」に横側にある鳥居をくぐって入った。













旧手水所で、四国の石鎚山に源を発する加茂川より運ばれたもので世に「伊予の青石」と呼ばれる石である。



















力持ち自慢を競った東京都無形文化財の「力持ち碑」



















「富岡八幡宮」は、1627(寛永4)年に当時永代島と呼ばれいた現在地に御神託により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、65000坪の社有地を得た。世に「深川の八幡さん」と親しまれ、今も昔と変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」という。特に毎月1日、15日、28日の縁日には非常に賑わいを見せる。
ここで丁寧にお参りしてきた。


















「百度石」
























屋根が銅板葺きの手水鉢には、鳳凰型の吐水口からセンサーで自動的に給水されている。






































「昭和天皇 救国の御決断」の石碑が建っており写真と説明版が貼られていた。
昭和天皇は昭和20年3月10日に東京大空襲された後、被災地を視察されたいと仰言させられたが、軍は天皇の抗戦の決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執されたので、3月18日に車のボンネットから天皇旗をはずし、ひそかに車に乗られて永代橋を渡り、深川に入ると、見渡す限り焼け野原だった。富岡八幡宮の焼け焦げた鳥居の前で降りられ、手水所前で説明をうけられた後、「こんなに焼けたのか」としばし立ちすくまれた。この時に昭和天皇は惨禍をめのあたりにして、終戦の決意をされたのに違いないという。終戦の8月15日は、富岡八幡宮は江戸時代を通じて「例大祭」があった日である。終戦は富岡八幡宮の御神威よるもので、新日本の再建は富岡八幡宮から始まったと記されていた。








































「富岡八幡宮神輿」は日本一の神輿と言われ、江戸時代深川に屋敷にあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と言われたが、大正時代の関東大震災で焼失してしまった。それ以来、神輿の復活は深川っ子の念願であったが、平成になってから昔とも劣らい豪華な大神輿が復活した。


















ウィンドーガラスが光っていて分かりにくいが、大変大きく黄金色で立派な神輿である。
高さが14尺5寸、重さ4.5tで、上に載っている鳳凰の目は4カラットのダイヤモンドが2個、その他鳳凰の鶏冠はルビー2010個などがはめ込まれているという。
























近代日本地図の始祖である「伊能忠敬」の銅像があった。忠敬は1794(寛政6)年の52歳の時に長男に家業を譲り、江戸に出て、ここ富岡八幡宮近くの居を構えていた。浅草天文台の高橋至時の下の下に歩測しながら通った。そして1800(寛政12)年の59歳の忠敬は
この屋敷から最初の日本全国測量の旅に出ている。測量は10次にわたって行われ、17年間かけて「大日本沿海興地全図」を完成させた。忠敬は測量旅行出発の際には、必ず富岡八幡宮に参拝したという。地図好きな私にとっては大変尊敬する人の一人である。
























富岡八幡宮は、江戸勧進大相撲発祥の地と知られ、1624(寛永元)年に初代横綱明石滋賀之介が四谷笹寺で勧進大相撲を6日間興行したのが始まりで、その後、富岡八幡宮で毎年8日間の興行、1778(安永7)年からは10日間に延長、そして明治時代まで花相撲が興行された。明治時代には歴代横綱の名を刻んだ横綱碑が建立されたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し、昭和58年に建てられた碑で、9代目市川團十郎と5代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を使っている。

























また、力士の手形、足形の石碑もあった。自分の手と合わせてみるのも面白そうだ。
























他に「強豪関脇力士碑」があり、この中に後にプロレスラーで人気を博した「力道山」や私が小学生の頃に大相撲のテレビを見ていて好きであった「北ノ洋」の名前も見えた。
























境内を最後に出たのが、富岡八幡宮の正面の大きな鳥居である。