2023年7月12日水曜日

吉崎御坊跡(2)東別院 願慶寺

 吉崎御坊跡(1)歴史 西別院の続きで、その後、一度下に降りて隣の真宗大谷派吉崎東別院の方に行った。



こちらの山門をくぐると、右手には太鼓堂、宝物館、鐘楼などの建物が並んでいる。中でも「太鼓堂」は背が高く、名古屋城の櫓と同形式の建て方で威容を誇り、現在の建物の中でもシンボル的存在である。










































中央には本堂があり、この建物は1747(延享4)年に再建されたもので、蓮如上人が船上で書いたという六字名号の掛け軸を所蔵しているという。


















その近くには、小さなお堂があり中には「蓮如上人像」が安置されていた。
























また本堂の隣には、「吉崎東別院会館」、「吉崎東別院志納所」の看板が掲げられた立派な建物があった。


















西別院と東別院の間には細い階段があり、嫁おどし伝説が残る「願慶寺」へ上る階段である。
























「願慶寺」は真宗大谷派寺院で、1471(文明3)年に蓮如上人が吉崎道場(坊舎)創建の際、和田重衛が吉崎三十人衆共々、蓮如の弟子となり、願慶寺の初代となり、蓮如吉崎退去後は、「道場」として、道場跡を護持する。1721(享保6)年に願慶寺本堂を本山御坊とし「吉崎願慶寺」と称する。現在は山門と本堂からなる。


















本堂では、「嫁おどし肉付きの面」の拝観と、住職から、そのお面の縁起についての話を聞くことができる。
細呂木の坂口村に住む百姓与惣次夫婦の仲が良く、蓮如に帰依し、毎夜、吉崎詣りに通っていた。それを見た姑がねたみ、ある夜嫁一人が参詣に行くのを見届けて、その帰り道に暗い竹藪の中で待ち伏せ、鬼の面をかぶって驚かせた。信心深い嫁は、少しも驚かなかった。当ての外れた老婆は面をとり、帰ろうとしたが、面が顔にくっつき、どうしても外せなかった。
困り果てた老婆は、蓮如の教化を受けて懺悔すと、ようやく面が前に落ちた。その後は姑嫁共々吉崎に参詣したという。
この伝説は、江戸時代に「雪国嫁威谷(ゆきのなところよめおどしだに)」という題で文楽や歌舞伎となって、多くの人たちを楽しませたのだろう。


















三十六歌仙画帳などを描いた土佐三起(1617~91)の作とされる「嫁威し絵伝」
























「肉付きの面」は、見る角度によって全く変わる不思議な面である。