2022年9月12日月曜日

長町武家屋敷跡 野村家(1)

 長町武家屋敷跡 野村家はこの近くを何回も通っているが、野村家の中を短時間でしか見たことがなかったので、今回は少しゆっくり見てきた。












野村家は、前田利家が金沢に入城した際に、直臣として従った野村伝兵衛信貞は禄高1200石で,10代に渡って御馬廻組組頭や各奉行を歴任し、1000坪余りの屋敷を排し、明治4年の廃藩まで続いた由緒ある家柄である。



















加賀、能登、越中三国の要にある末森城は、前田利家の重臣奥村永福(ながとみ)がこれを守っていた。1584(天正12)年9月に家康と組んでいた越中の佐々成正が、八千の軍勢で末森城を攻めた。城主永福の必死の防戦と危急の知らせに金沢城にいた前田利家が急縁し、2500人が背後から急襲して勝利を収めた。この戦いで馬廻衆野村伝兵衛は一番槍を果たし、利家より一千石の加増を申し付けられたと記されている。下図は末森城の戦いで、野村伝兵衛が一番槍を果たした時の鎧と言われている。
























武家制度の解体で、辺りの多くは菜園となったが、幸い門、土塀などは従来のままの姿を残していたものの、大正初期の窮乏でさらに土地を分割されて、現在の住宅街に変貌したという。安政期の古地図で見ると、野村家は2の橋と3の橋の間に渡っていたので、現在よりも広かった。





















現在の野村邸は、一部が当時のままを残す庭園と建物は加賀の豪商・久保伝兵衛が大聖寺藩主を招くために1843(天保14)年に建てた豪邸に一部を、昭和初期に移築したものである。この建物は現在加賀市に「蘇流館」として移築されている。久保伝兵衛は藩政期に北前船による交易で財を成した橋立の豪商である。





以前見た「蘇流館」のブログ http://kanazawa-burari.blogspot.com/2020/09/blog-post_17.html
中に入ると「奥の間」から「控えの間」、「謁見の間」、「仏間」と続く。透かし彫りの欄間
やすばらしい襖が見える。


















こちらは「上段の間」の前の「謁見の間」で、ここの襖絵は狩野派最高峰の位を持ち、加賀藩お抱えの絵師でもあった「佐々木泉景」が手掛けた山水画である。


















金に糸目をつけない総ケヤキ造りの格天井の「上段の間」には紫檀、 黒檀を使った緻密な細工造りで、床下が桐板張りだという。地袋に描かれている游亀の図も佐々木泉景色の代表作である。濡れ縁に迫る曲水を映よるギヤマン入りの障子戸はその当時、弘化、嘉永年間としてはまさに目を見張ったことに違いいない。


















































金彫師の手によるものと思われる黒柿材の透かし彫りの釘隠し、襖の引手は鉄刀木(タガヤサン)の細工彫りでできている。