2022年9月23日金曜日

シベリア抑留展示会

今回は、「シベリア 抑留展」が高岡町の「かなざわ文化ホール」で行われていたので見てきたので紹介する。この場所は、私の中学校の跡地であるがすっかり変わってしまった。







































「シベリア抑留」については、私の親戚や知人などに関係していた人が一人もいなく、あまりよく知らなかったので、少しでも知ろうと思い来た。何しろ570万人以上の人が抑留されて、極寒の地で働かされて5万人以上に人が亡くなったという、大変ひどいことをされたということだけは聞いたいた。


















昭和20年8月の終戦間際に旧ソ連が宣戦布告をし、間もなく終戦となったが、満州にいた27か所、北朝鮮8か所の日本人が集められて、1000人単位で各終結地から徒歩、貨車、船でソ連領内に連行されたという。


















旧ソ連の各地にあった日本人収容所











抑留者にとっては最初に冬は、まさに生きるための戦いであったという。完備した防寒衣類を備えていなく大寒波が襲い掛かり、食料が欠乏したうえ、重労働と絶望感から多くの抑留者が倒れたという。

抑留生活の一部の絵が展示されていた。

上は「シラミ退治」 下は「レンガ造り」

























上は「金歯とパンの交換」、下は「戦友の死」
























上は「幻覚」(頭の中にある御馳走を、空っぽのガラスケースの中を漁っている)、下は極寒の「木材の運搬」
























抑留者が日本に帰ってから思い出して描いたイラスト


















労働によって破れた部分を切り取った作業者の裾や支給された布などをあてて縫い、寒さをしのいだという。これを見ると極寒の中での作業がいかに大変だったかが偲ばれる。














イルクーツクの拘留中に、白樺の木を削って作った将棋の駒














抑留所のジオラマ


















私はシベリア抑留に関しては、テレビで作曲家の「吉田正」さんの体験談などで少し知っているくらいだったが、改めてよく知ることができた。
シベリア抑留体験者はもう95歳を超えているから、この事実を語る人がだんだん少なくなっている。戦争が終わった後でもこういうことがあったことを若い人に継いでいかなければならない。
そういえば、二葉百合子さんのヒットした唄「岸壁の母」を思い出す。抑留者が帰還する「舞鶴港」に、わが子に会うために何回も通ったという母の歌であるが、そのモデルの人は石川県の人だと聞いたことがある。