鳥居の前にこの神社の「御縁起」が書かれた案内板が立てられていた。創建は奈良時代の723(養老7)年と伝えられている。元正天皇の時代に全国に農地改革の詔が発せられ、越前の国加賀郡にも田畑の開墾を進め灌漑の便をよくするために大堰堤を造り、水と農業の守り神として「大堰宮」を造った。そしてこの社地を「大堰」(おおひ)と言い、現在の「大樋」という地名の語源と言われている。戦国時代に荒廃した社殿の相殿に安産・子育て・結びの神として(いざなみのみこと)・伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)を祀ったが、そのうち衆人より児安大明神と呼ばれて親しまれるようになったという。江戸時代には宮守として真言宗の僧侶が住んでおり、その僧侶の内儀が毎日境内にある「子授け石」を撫でたことで子宝に恵まれたともいわれ、子宝を望む人々や産婦の安産、我が子の無事な成長を願う親たちから崇敬された。このことを聞き及んだ加賀藩三代藩主の前田利常公からも篤く信仰され、前田家に伝わる安産神符秘法を伝授奉納された。これより、広く世の産婦や安産神符を望む人々に頒布するにつれ、社号は児安大明神・児安観音から泰産社と称されるようになったという。
鳥居の横には、ここの土地が大樋町民の所有になった時の記念碑があった。明治5年の地租改正を機に、相対請地制度による農民からの借地であったが、土地を取得するため町の有志が長い年月をかけて努力し、明治初期に金沢市に編入することになったこと記念する石碑であることが案内板に書かれていた。
境内には大きな木が生い茂っていた。スギ、エノキ、タブノキなどの高木35本、ツバキ、ヒサカキなどの低木450本あるという。金沢市指定の保存樹となっている。
参道左の杉は樹齢300年、標高22m、幹周り3.4mの巨木でご神木として語り継がれている。
参道の階段を上り、朱色の柵の中に入ると鳥居があり、その奥に社殿がある。
この階段の途中を左に入ると「子授石」がある。この「子授石」は、ここの創建以来の霊石である。妻女がこの石を撫で自分の腹をなでることによって玉の如き子を授かり、しかも豊富な母乳が得られるものと言われている。
軍人の「御成婚記念」(?)碑の上に大砲の玉かと思われるものがのっていた。
拝殿は古風で簡素な感じである。ご祭神は伊邪奈美命(いざなみのみこと)・伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)、相殿神として畔分堰神(あぜわけせきのかみ)と児安大明神をお祀りしている。
拝殿の前にあたらしく「子授守」ができ「安産神符」と同様に、「児安神社」の前の大通り向かいの「清水商店」にあるので気い求めてほしいことが書かれた紙が貼ってあった。
「清水商店」には、「安産祈願」や「子授守」のほかに小さな動物などかわいいのお守りが販売されていた。