さらに進むと、1本の松と「下口の松門跡」の案内板が掲げられていた。藩政期にここに大きな松と門があったのであろう。城下の町地と郡地の境界を表し、参勤交代の時はここまでは行列が整列していたが、この門を出ると行列を緩める役割を果たしていたという。また旅人を送ったり、迎えたりするのもここの地点までだったという。
案内板の下方には、このあたりの1811年の「金沢町絵図」が載っていたが、街道の両側には通りに面して細長い町屋がびっしりひしめいて並んでいた様だ。近郊の農村の人たちが町で用を足した後、ここで生活必需品を買い求めて帰ったという。
その隣にある坂道を上がると「桜丘高校」がある。
途中の急な坂道の両側には、春になると「桜丘」の名前通りソメイヨシノがいっぱい咲く坂道になるのだろう。この坂も私にとっては結構きつかったが、高校生は軽々上っていくのだろう。
高台に上がると、前面のポールが印象的な立派な建物が見えた。4年前に新校舎ができたという「桜丘高校」に来たのは私は初めてである。「質実剛健」、「文武両道」をモットーとした金沢市の名門の高校である。校舎の周りを少し歩くと、今日は休日なのに窓越しのテーブルに向って勉強しているような生徒がかなりいたが、自習しているのであろうか。
「桜丘高校」の前身が金澤第三中学校であるが、その建物の玄関棟が「三桜会館」となっている。旧制金澤第三中学校は1923年に開校した時にこの建物も竣工した。大正時代に建った学校建築で唯一現存している建物だという。
玄関ポーチはモルタル塗りで仕上げられており、壁は下見板で、長い上げ下げ窓や上部の特徴のある形のでっぱりや黒い瓦屋根が面白い。
私が学生時代から社会人なった昭和40年代には、桜丘高校は野球が強く、甲子園に行っていて、テレビでよく応援していた。東京から帰省していた時に、斜め向かいの子が出場していて「うちの子が1点入れた」などと大騒ぎしていたのを思い出す。