室生犀星記念館(1)旅する犀星の続きで、その後、明治43年に上京してから最初に帰郷したのが明治45年で、帰郷中、東京で親しくなった友人の自殺を知らされ、友人の故郷であった七尾の海で友を想う詩を作った。七尾ではさらに甥の小幡禎一を訪ね、ここで京都旅行の資金援助を依頼している。
大正2年に京都の旅を終えて2か月後に金沢の雨宝院から東京の北原白秋に宛てにだした葉書には「いま深谷といふ温泉からかへつてきたところです。湯づかれがしてぼんやりしてます。」と書かれている。このころの犀星といえば、白秋が主催していた詩集「ザンボア」に詩が多く掲載されている。このころは「小景異情」を発表したりし、若き犀星の抒情詩が最高潮であったころである。深谷温泉は金沢市の森本の奥の方にある有名な温泉で、特に「元湯 石屋」は江戸時代から創業している老舗で、能舞台もあるレトロで高級感があり値段も高いという印象があり、私はまだ一度も行っていない。
加賀温泉郷の山中、山代、片山津らの温泉地は、震災にあって東京から帰省中の大正13年に訪れ、いくつかの俳句を残している。
犀星が小幡禎一に抱いた葉書や 犀星が泊まった山代温泉の「くらや」の絵葉書や山代、山中温泉の景色が映っている絵葉書などが展示されていた。
大正9年7月、犀星は田端駅を出発し、信州へ一人で旅に出かけた。
紀行文「旅のノオトから」(「時事新報」大正9年7月31日~8月31日)に書かれたものには、「軽井沢を通り過ぎ、まずは長野駅に降り立ちます。車で市街を抜け、善光寺前にあるホテル藤屋にやどをとって風呂を浴び、日が暮れてから善光寺をおまいりした」とある。ホテル藤屋の絵葉書や長野市内の地図や付近のパノラマ地図が展示されていた。
ホテル藤屋の所は、藩政期には加賀藩の参勤交代の本陣があった所だという。
善光寺の当時の写真で、現在とはずいぶん違うところもあるだろう。
翌日は柏原駅(現黒姫駅)から車で野尻湖へ向かい、小林一茶のお墓を参りした。野尻湖で小松屋に落ち着き、湖の涼と星空を楽しんだ。東京の帰路に軽井沢で下車し、つるや旅館に宿泊した。これが軽井沢を訪れた最初であるという。
翌年以降毎年の夏に軽井沢で過ごすことになるという。ここから犀星は、軽井沢を起点に信越本線に沿って観光地や温泉を訪れ、旅を楽しんだ.
大正10年に萩原朔太郎を軽井沢に呼び寄せて二人で赤倉温泉に行き、水入らずの旅を満喫。泊まったホテルには尾崎紅葉が明治32年に訪れ、「煙霞療養」に書き記した香嶽楼だった。
昭和4年には千曲川に沿った戸倉温泉にふらりと一人で出かけ、笹屋ホテルで入浴と食事を終えた後、あわただしく軽井沢に戻っている。
昭和9年には幼友達と小諸に出かけ、小諸城や町巡りをし、カフェや鰻屋で舌鼓を打った。同じく昭和9年には妙高温泉でも1泊したようだ。