鶴来巡り(2)の続きで、さらにもう1本山側の通りに、大きなお寺の「鶴来別院」がある。
鶴来の仏教に関する歴史は古く、特に浄土真宗は北陸拠点とした清沢願徳寺の開基や親鸞聖人廟所があることからも分かる。この建物は、地元民の浄財によって1899(明治32)年に落成した。この本堂は、ケヤキをふんだんに使った入母屋式平屋建桟瓦である。
明治期の建物としては県内有数の規模もので、白山市指定建造物となっている。
伽藍のいたるところに唐様の形式が用いられ、細部に室町時代風の様式、手法が採用されているという。内外部に施した彫刻は、富山の井波から招いた工匠たちによるものだという。
寺内に祀られている本尊
「鶴来別院」の隣の小路辺りに、かって「鶴来遊郭」あったらしい。金沢の「ひがし」、「にし」に次ぐ規模のものであったという。鶴来は江戸時代より葉煙草刻み業が盛んだったが、明治になって葉煙草法の改正から転業を余儀なくされ、ここ「日詰町」の数名が「この地は居住地ながら、当町でも端にあり、しかも一方は崖斜地にて、商売は不向き」として貸座敷業の願いを出し、許可されて始まったという。貸座敷業とは「芸妓置屋」のことで、明治の中期には、手取川の氾濫により堤防の工事や七か用水の改修工事などで、人は集まってきて、ここ「鶴来遊郭」も盛況だったという。その後も石川線・金名線の敷設、手取水力発電工事などに関わる人も多く昭和初期まで続いていたという。
この先に「金劔宮」へ上がる階段が二つあり、「女段」、「男段」がある。「女段」を上っていくと「鶴来節」の記念碑という大きな石が置かれていた。「鶴来節」は、昭和2年に鶴来遊郭温習で初めて紹介されたもので、鶴来の山紫水明・風光明媚さを唄にしようと地元に求めに応じて、金沢市の川柳家でジャーナリストの人が作詞し、遊郭の女将連によって作曲・振付されたものであるという。大正から昭和初期にかけて、県内外の文人墨客で賑わった鶴来遊郭を象徴する民謡で、これを鶴来民族保存会が建立したものである。
さらにその横に「金劔宮境内不動滝」があるが、長さが15mの滝で、安政年間(1854~60)に福田美楯は厳冬時に不動滝が凍結する光景を「雌坂龍縣氷」として「鶴来十二勝景」のひとつに選んだという。「鶴来八景」として選定され「不動滝氷柱」とされており、古くから名勝地として親しまれているという。
「不動尊」の隣には、「岩清水薬師不動尊」があるが、この湧水は澄んでいて飲み水や洗眼によく、冬は暖かく夏は冷たく枯れたことはないと伝わっている。