この日は非常に寒く、時折吹雪が舞う天気の中で行われた。それでも2,30人の見学者が熱心に集まった。まず市役所の担当者から、西外惣構堀の升形の概要について説明があった。
升形は、宮腰往還(現在の金石街道)と西外惣構堀と交差する場所で、交通・訓示の要所に位置し、外敵の侵入を防ぐ目的で作られたという。市役所の担当者はパネルを使い、この復元工事の進捗状況を説明してくれた。
今回の調査により、1600年初めの築造当初の堀の跡が見つかったという。それによると堀幅は、西側(写真の下側)で約14m、約北側で11mだったというから相当広いものだった。もし敵が攻めてきた場合に、14mの堀に「宮腰往還」に架かる橋を渡る敵を、土塁の上から鉄砲や弓などで攻撃するためであろうか?
江戸時代当初の戦国乱世から、太平時代へと移り変わる中で、軍事的な役割が薄れ堀もどんどん狭められたという。堀の側面は、当初は土だったが、狭められる都度に土が崩れないように石垣が築かれ、5,60年毎に積まれ4段あったという。
この石は、犀川水系の石だけでなく、赤い戸室石も含まれていることから浅野川水系の石もあるという。江戸後半には石を割った割石が使われるなど4段階での積み方も少しづつ変わってきているという。
土塁は、高さが5.3mもあり、復元では何んと「発泡スチロール」を使っているという。下の石垣を崩さないために軽量化しているというが、私たちのイメージとしては吹っ飛んで壊れないかないのかと思うが、最近の技術で強度上も全く問題ないのであろう。この土塁も平和な時代になり、藩政期の初期から徐々にに崩されてしまったという。
土塁の大きさを表した図形で、何段もの「発泡スチロール」の棒状のものが積まれているが、元はもちろん土で積まれたものである。
1674年の延宝金沢図では、土塁がまだ少し残っていたようだ。
また、幕末の様子を描いたと言われる「巌如春」の絵図には、門の木戸が描かれているが、もうすでに土塁はなかったようだ。
完成は今年の3月にできるという。説明書きを大きくしてもらい、観光スポットの一つとして多くの観光客の目に留まるようにに宣伝してもらいたいものである。
以前、このブログでも紹介した、この升形を管理していたお寺の「西福寺」はすぐ近くにある。その背後には、以前来た時にはなかった大きなマンションが建っていた。