盛岡城は、南部信直が1598年に築城されたという。城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものだといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出た丘陵に本丸・二の丸・三の丸・腰曲輪(こしくるわ)などがあって、それぞれ雄大な石垣を構築して内曲輪としている。盛岡城も「日本100選」に選ばれている。
南部42代利祥(としなが)が日露戦争で24歳で戦死し、その功によって攻五級金勲章を受けたことを顕彰する像であったが、銅像本体は戦時下の金属供出として撤去され、現在は台座だけが残っていた。
城跡公園内には所々にあずまやが建てられ、それぞれの景観や自然、情緒にちなんだ愛称が付けられている。
岩手山は見えなかったが、盛岡城跡から見える山並み。
そして盛岡の街並み
城跡公園の木々は色づき始めていた。
この古木は、岩を割って生えている「石割桜」なのか?後ろに大きな岩が見えるが、岩を修繕しているのか?本来は岩の中に古木が生えているはずだが。
南部藩城主の4柱を祀ってある1749年建立の 「桜山神社」
その神社の後ろに ある大きな石「烏帽子岩(かぶと岩)」は、盛岡城築城時に、ここを掘り下げて出てきたもので、「宝大石」とされ、以後、吉祥のシンボルとして信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願が行われ、「お守り岩」として崇拝されているという。城跡には、他に学生時代を盛岡で過ごした「宮沢賢治」の詩碑や石川啄木の歌碑などがある。
城跡を出て、すぐの所にレトロな建物があった。これは「岩手銀行旧本店本館」で、この建物の設計者は、日本銀行、東京駅などを手掛け目地洋風建築の権威である「辰野金吾」と盛岡出身の「葛西萬司」の二人で「赤レンガ」の愛称で呼ばれているという。
内部は、一、二階の吹き抜けや、木製の飾り柱のコンクリート様式柱頭、天井は石膏くり型、各客室の扉の彫刻など意匠に富み、クラシカルな雰囲気を作り出している。
建築当時の姿をそのまま伝え、今でも当時の目的で使用されている建物の重要文化財は、全国で最初のものだという。
近くの中津川のほとりに「新渡戸稲造」の胸像があった。「新渡戸稲造」といえば「武士道」を翻訳したことで有名だし、何んといっても五千円札のお札の肖像画として載っていることでよく知っていたが、盛岡出身とは知らなかった。
「もりおか啄木賢治青春館」が近くにあったようだが、見過ごしてしまった。