「中村神社」の由来は,下記のごとく書かれていた。
当宮は平成21年に御鎮座1100年を迎えた。
貞享2年(1685)の六台?山派山伏頭・蓮花院の由来書には「往古より中村に鎮座していたと伝がある」と記されており古来より氏子崇敬者の心の拠所として鎮座している。慶長7年(1602)より地蔵院という別當が奉仕し、本尊に薬師如来を安置し、後に春日明神の神霊を迎えた神仏混淆の神社であった。
中村はもと、旧伝馬町、蘭田町、物吉町の中央あたりまでが村地であって部落も犀川の右岸にあったが、城下の拡張で左岸の今の地に移され、このときにお社も一緒に移転し、現在の場所に鎮座した。
明治元年神仏分離令により別當が復職して神職となり、宝久寺を中村春日社と改称し、明治13年9月に郷社に列せられた。
また、拝殿は、旧金沢城二の丸御殿内に建立された舞楽殿(能舞台)を移築した金沢城内の数少ない建造物であ、平成16年には文化庁登録有形文化財に指定された。
すぐに拝殿の方に行き、二拝二拍手一拝して丁寧にお参りした後、江戸時代の中期に建造されたという金沢城の二の丸御殿にあった舞楽殿(ぶがくでん)(能舞台)をしっかり見た。
金沢城は明治14年に大火災に巻き込まれ、城内の建物はほとんど焼失したが、舞楽殿は明治3年に卯辰山に造営した加賀藩戦没者の招魂社拝殿として使われていて焼失を免れていた。その後に石引の護国神社が造営され、御霊のみを遷し、舞楽殿は取り残され放置されていたが、昭和40年ごろに中村神社の社殿改装に伴い、この地に移築されることになったという。
桃山風建築様式の重厚な総ケヤキ造りで、四方の欄間は有名な成巽閣の欄間も彫った武田友月の作で、金色の目を光らせる竜神がある。移築が結果的に幸いし、城内の火災から逃れたのが、この龍が水を呼びこんだといわれるようになったという。
極彩色輝かしい模様が描かれた格天井が、数百年経っても前田家藩主の威厳を感じさせる。この眩い色彩の下で、藩主らが家臣を前にここで能を舞ったのかと想像する。
また、拝殿の中に千日町の獅子舞に使われる金色の角や歯をもった桐(?)で作られた立派な獅子頭が飾られていた。
参道の両側にはこれもやはり立派な春日灯籠が並んでいた。
「洗心」と書かれた手水鉢が置かれ、その後ろに「中村神社」の由来が描かれた石碑があった。
荒々しい顔立ちのおおきな「狛犬」
境内には数本の大きなケヤキがあり、さながら鎮守の杜となっている。