この建物は、1827(文政10)年に11代将軍の徳川家斉の息女溶姫が加賀藩13代前田斉泰に嫁いだ際に建てられたもので、国の重要文化財にになっている。当時、将軍家の娘が大名家に嫁ぐ場合に、大名家で朱色の門を造る習慣があったらしい。しかし、今残っているのはここだけである。
屋根を見ると、前田家の「梅鉢の紋」の軒丸瓦の上に、徳川家の「葵の紋」が軒丸瓦がある。(この写真からは葵の紋は小さくて見ずらいが)
この門は「薬医門」形式(中央は中心の柱から少しづれる門)で切り妻造りとなっている。赤門は焼けたら再建が許されぬということで、「加賀鳶」が常時近くに待機していたという。
そういえば、映画の「そろばん侍」の猪山直之の父信行がこの門を建てたということを誇りにしていたシーンを思い出す。
この門の両側には唐破風本瓦葺の番所があり、美しいナマコ塀が配置された豪華な門である。
この番所は前のほうは朱色で塗られているが、裏に回ると朱色に塗られていない。外目に見えない所は倹約したのであろうか(?)私も聞いていたのでわかったが、そうでなければ感づかない。
この赤門の前の通りを少し歩き、左を曲がると、明治に建てられたという前田侯爵邸の洋館「懐徳館」の遺構が残っていた。この建物は「東京大空襲」で焼失してしまったという。
「加賀藩上屋敷」について、以前に講座を受講したことがあるので少し紹介する。右側は幕末の本郷付近の古地図で、左側は現在の東京大学キャンパスと幕末の加賀藩本郷邸の位置絵図である。北に「水戸藩」、東に「富山藩」、「大聖寺藩」があった。将軍御三家のひとつの「水戸藩」より広かったことが分かる。
「加賀殿再訪」より
下図は加賀藩上屋敷の構成図で、中央部のピンク色と緑色の部分が「御殿空間」。それを取り囲む紫色、青色、黄色が「詰人空間」である。「御殿空間」のピンク色の所に屋敷があり、藩主やその家族が住んでいた。緑色の所には「心字池」を中心とした「育徳園」の庭園があった。赤門近くに「富士山」とあるが、40m近くの丘があり、江戸中が展望でき、富士山をはじめ品川の海までが一望できたという。
それ以外の「詰人空間」は区画の細かい建物が多くあり、2、3000人の江戸詰めの藩士や中間・小者などの武家奉公人が住んでいたという。
「加賀殿再訪」より
下図は「加賀藩江戸本郷邸泥絵」で、江戸時代幕末に多く描かれた名所絵のひとつの泥絵具で描かれたもので、藩邸の様子がイメージできる。
「加賀殿再訪」より
下図は「江戸図屏風」に描かれた本郷邸で、明暦の大火以前に描かれたものといわれている。屋敷の屋根には金箔瓦が描かれ、深山幽谷の「育徳園」の様子などが分かる。藩邸内に物を運ぶ小者などもなども描かれていている。
「加賀殿再訪」より