2016東京ドライブ(3)の続きで、その後、「旧岩崎邸庭園」から近い本郷の「東京大学」に向かった。そして「東京大学」の正門の向かいの通りに入り、以前から近くに「徳田秋声旧宅」があるということを聞いていたので、そちらへ向かった。しかしなかなか見つからず、途中に二人の人に聞きながやっと見つけることができた。
しかし、鍵がかかっていて中を見ることはできなかった。現在は秋声の孫が住んでいると聞いている。「東京大学」の正門前の大通りから近いが、細い通りに入るとひっそりしたところだった。こういうところで長い間秋声が執筆活動をしていたのかと思いをはせる。
また、家の裏にある白い建物が、泉鏡花の弟が住んでいたというアパート(秋声と鏡花が和解したきっかけとなった)なのであろうか?(建物は改修はされているが)
秋声が使っていた書斎は、まだそのままあると聞いたが、見ることはできなかった。下図の写真は「徳田秋声記念館」にある再現された書斎。
「徳田秋声旧宅」を見た後「東京大学」に行き、正面から入った。ここは、言わずと知れた江戸時代には「加賀藩上屋敷」のあったところである。
構内での撮影は許可がいると、あらかじめ聞いていたので、前に立っていた警備員に確認したところ、「どうぞ、どうぞ」と言われ難なくは入れた。他にも見物客らしい人が何人もいた。
正門を入って、安田講堂までは銀杏並木があり、両側にレトロな建物が建ち並んでいる。
銀杏並木を超えると「安田講堂」がある。この建物は1921年に起工し、工事中に関東大震災に遭いながらも倒壊することなく1925年に竣工したというからかなり古い。
この建物で、何といっても思い出すのは1969(昭和44)年にあった大学解体を掲げ過激派学生たちが立てこもった事件で、機動隊と衝突し、機動隊が放水をしていた様子をテレビで見たのを覚えている。
闘争により一時荒れ果てたが修繕で修復し、現在は広場の地下には食堂が、また講堂の裏側には、生協購買部やコンビニなどが入っているという。講堂前の玄関のタイル、ガラス張りにはレトロな装飾がなされていた。
安田講堂の前を右に回ると大きな銅像があった。誰だか分らなかったが、後で調べてみると濵尾新(あまお あらた)という人物で、東大創成期に最も活躍した一人で、東大の発展に生涯を費やしたという。
この銅像の裏側の坂を下りると「三四郎池」に出る。夏目漱石の小説の「三四郎」以来、この名前がついたが、もとは旧加賀藩上屋敷の庭で、3代前田利常が1638年に築造された池で、その死後、5代綱紀が、さらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園のなかでも第一と称されているという。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の名称は「育徳園心字池」である。この庭園「育徳園」こそ、兼六園の作庭のきっかけとなった庭である。3代利常は、徳川秀忠、家光の「御成」のために作庭したものである。一体どんな庭園だったのであろうか?
池の近くに、この池に注ぐ滝があったが、この辺りにいると東京大学のキャンパスの中にいることを忘れてしまいそうな深山の中にいるような静けさだ。