2014年12月11日木曜日

石川県伝統産業工芸館(1)石川の工芸の歴史

今回は、兼六園内の小立野口にある石川県伝統産業工芸館に行ってきた。
ここは、以前は石川県立美術館だったが、出羽町に新築されたので、現在は石川県伝統産業工芸館になり伝統工芸品36種を展示紹介しているので、ここへ来れば石川の伝統工芸が一同に見れる。




















この建物は、文化勲章保持者で金沢市の市民栄誉賞保持者の「谷口吉郎」の作のものである。
ここは、もと石川県立美術館のころに、私が中学生だったか高校生だったか忘れたが「日展」が開催されていて、学校から見に来たことを覚えている。どんな絵や彫刻が展示されていたかは全く覚えていない。




















石川県や金沢市の魅力は、観光地の兼六園・金沢城、茶屋街、武家屋敷の他に、食と工芸がある。この工芸について、なぜ石川県で発展しているかを紹介する。
金沢の町を作った藩祖前田利家、2代利長、3代利常などは超一流の茶人「千利休」や「仙そう宗室」などと交流があり、茶道を武士にも奨励した。茶の湯では優れた茶道具が使われ、茶の湯が盛んな土地では今でも工芸活動が行われているという。この茶人たちの優れた美の感性が金沢の工芸活動や文化の土壌づくりに大きな影響を与えたものといわれている。
また、江戸時代において、前田家は100万石の大藩だったので、徳川幕府の警戒の目を避けるために、100万石の経済力を文治政策に力を注いだという。


























特に3代利常と5代綱紀は、京都や江戸などから多くの学者、文人、茶人、工人たちを招き、藩内に滞在させ、藩内の武士や町人が交わることで知識、技能を教え、人材が育成されたという。他に、全国から貴重な書物、文献、参考素材などを積極的に収集もした。
5代綱紀が収集した蔵書「尊経閣文庫」や各種の製品や標本を集めた「百工比照」は後の石川の工芸に大きな影響を及ぼしたという。


























金沢城内の新丸に「御細工所」をつくり(後に今の旧四高記念公園付近に移す)、当初は武具や武器を修理する施設だったが、京都や江戸からの指導者によってより高度な工芸品を作るようになった。こういったことが加賀藩は美術工芸の優れた文化の国として知られるようになったという。
ここの細工者たちは本業の細工のほかに兼芸として能楽をすることも義務付けられた。この能楽を通じて細工者としての豊かな感性や知識を育み、技能者としての資質を高めることにもなった。
また、この「御細工所」の存在は、京都の工芸文化と違う独自なものを作るきっかけになったという。














「よみがえる金沢城」より





明治になって「御細工所」がなくなり、工芸は一時衰退したが、殖産興業政策により工芸品の展覧会開催や勧業博物館や金沢区方工業学校(現在の石川県立工業高等学校)ができ、再び石川の工芸は復興した。戦後は金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)が開校し、数多くの巨匠を生んで今日に至っているという。
現在では、金沢市の「卯辰山工芸工房」や「金沢職人大学」で藩政期からの「ものづくり」の技の継承、発展に努めている。
金沢市は2009年にはユネスコから創造都市ネットワークのクラフト(工芸)分野で世界で初めて登録されている。