今回は石川県民大学校の「ふるさとモット学び塾」の一環として「木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり」に参加した。
朝8時半に「本多の森庁舎」に集合し、30人くらいでバスに乗って倶利伽羅方面に向かった。説明してくれるのは金沢学院大学の東四柳先生で中世の石川の歴史についての第一人者である。
まず今の伏木駅付近の小矢部川沿いにある「如意の渡」を見学した。ここは義仲が5万の兵を駐屯した六渡寺から倶利伽羅方面に行く際に渡ったところであるという。
また、忍んで義経が奥州に行く途中で、ここを渡る際に見破られそうになり、とっさに弁慶が義経を打ちのめしたということが軍記物語「義経記」に書いてあるということである。これに基づく像があった。
この話が謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」になったというが、私らがよく知っている話の「安宅の関」とはどういう関係にあるのかよくわからない。
続いて、木曽義仲の祈願社として知られる「護国八幡宮」に行った。
ここは奈良時代に宇佐八幡宮の御分霊をしたのが始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代の末に木曽義仲が埴生に陣をとり、平家の大軍と決戦するにあたりここで祈願をし著しい霊験があったという。
戦国時代には武田信玄、佐々成政、遊佐義親などの祈願や社領の寄進が続いた。江戸時代には加賀藩主前田家の祈願社となった。
社殿は本殿、釣殿、弊拝殿の三棟からなっており、国指定重要文化財になっている。
この社殿の近くには「宝物殿」があり、中には戦国から江戸時代にかけての歴史を伝える貴重な古文書が展示されていた。残念ながら、中はカメラ禁止だった。
境内には馬に乗った勇壮な木曽義仲像があった。これは皇居外苑にある「楠木正成像」とよく似ていて立派な像だ。
木曽義仲は源平争乱の時代に、北陸道を駆け抜け上洛の夢を果たし、平氏を京都から西国に追った源氏の武将で、歴史の中でその活動が確認できるには4年足らずであるが、疾風怒濤のごとき軍事行動から「旭将軍」として「平家物語」に出てくる。
また、源平合戦の折、倶利伽羅山中で源氏軍が八幡神の御使いである白い鳩の導きによって、源氏勢が喉の渇きを潤し勇気を鼓舞したという「鳩清水の滝」を水源とする清水が御手洗違石鉢に注いでいる。
この後、「道の駅メルヘンおやべ」に入り、昼食をとった。ここで自慢の「源平火牛(牛すじ)煮込みごはん」を食べたが、量が多くて食べ切れなかった。
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