2023年6月11日日曜日

13代藩主の能登巡見巡り(11)石動山①

 13代藩主の能登巡見巡り(10)岡部家①の続きで、その後、富山県との県境で現在の「中能登町」にある「石動山」に行った。13代藩主斉泰の能登巡見巡りで、22日間の19日目に「石動山」の登ったと記されている。藩祖の前田利家が焼き討ちをし、その後前田家が再興の援助をしていることもあり、登ったのであろう。しかしかなりの難路でもあり、駕籠などを使っただろうが、どこまで登ったかなどはよく分からなった。























「石動山」については、前々から興味を持っていたが、よく知らなかったので、少し資料を調べてみた。
この山は、能登では宝達山(637m)、高州山(567m)についで3番目に高い565mある。富山の氷見市との県境にあって、昔から神が宿る信仰の山として崇められている。
この山は二つの顔を持ち、ひとつは豊かな森と幸を生み、多数に川は山麓の村々に豊かな耕作を可能にした。また、ピラミッド型の山頂は、海上から目立ち航路の目印となり、「魚だめ」の森として海辺の暮らしを支えてきた。
一方で、危険な山として恐れられ、大規模な地すべりやがけ崩れが各所で起こし、大石を落下させた。そのことから「いするぎやま」や「ゆすりやま」などと呼ばれていた。




「自然人」より












こうした暮らしを豊かにする反面、破壊する力を持つ大自然の大きさに人々は畏敬の念を抱くようになり、やがてそれが山頂に荒々しい男神を意識するようになり、男神イスルギヒコノカミ(石動彦神)の存在を意識するようになった。この素朴な山岳信仰から発生した石動山信仰は、その後平安末期から仏教思想にに取り入れられ、神仏習合の影響もあって各地から修験者が集まり、山内にも寺院が建つようになり伊須流岐比神社に奉仕する別当寺石動寺が成立する。鎌倉時代に入ると、石動山独自の神仏習合の世界観を持った信仰が成立し「五社権現」と呼ばれるようになった。五社の構成は本社大宮、白山宮、火宮、梅宮、剣宮で、本社大宮には主祭神石動彦神が祀られている。


















神仏習合以降、「真言系密教修験の道場」として発展してきた石動山は、1335(建武2)年に南北朝の争乱で南朝方に味方して全山が炎上してしまった。その後、1341(歴応4)年に足利尊氏が光明天皇の勅命を受けて石動山再塔にあたる。こうして復興した石動山は、天正10年に前田利家の焼き討ちに合うまで石動山の歴史上最盛期を迎える。
「能登は石動山のかげ」といわれるほど、石動山の影響は大きいもので、石動山を北上すると半島の背骨のように山並みが続いているが、石動山関係の教線のあとが網の目のように残っている。


















下図の「紙本着色石動山境内古絵図」に描かれた伽藍は、当時の華やかさの様子を物語、最盛期には360余坊、約3000人の衆徒を擁したと記録されている。
図の上方に伊須流岐比権現の本殿、中央に講堂(本堂)を描き、周辺に鐘楼や大師堂・五重塔などが配置されている。また、図の下方には、中央に高床の大堂、右手に門前の町屋も見える、縦155㎝、横202㎝の大図である。




















石動山信仰の広がりを最も示すのは、各地における分霊社の分布である。現在、宗教法人として登録されている神社に限っても、新潟県を中心に、東北から中部・近畿地方にかけて、石動・伊須流岐の名を持つ神社が約80社、さらに五社・五所の名を持つ神社を加えると、135社近くの及ぶという。また、過去に合祀。廃絶された神社や、火宮・剣宮などの分霊社を加えると、その数は数倍にも及ぶであろう。
衆徒らは、「いするぎのあきのすずめ」と呼ばれる知識米勧請とともに、みずから難行苦行を求め、諸国を遍歴して験力を示し、また、現世利益を求める庶民の生活に深く溶け込み、各地に分霊社を勧請した。
石動山信仰の原動力となった衆徒らのこうした活動は、石動山の歴史の中で高く評価されている。













戦国時代の石動山は、能登攻略を目指す上杉謙信との結びつきを強め、石動山や荒山城の構築を進めるなど、戦略拠点を強めていった。1581(天正9)年に能登を支配下に置いた織田信長は鹿島半郡にある石動山領を没収し、前田利家を能登に配した。翌天正10年、本能寺の変が勃発するや、衆徒らは上杉勢や守護畠山氏の重臣と結び、前田軍と荒山で戦ったが敗北した。この合戦で山内の伽藍はすべて炎上し、衆徒らは五社権現を護持して北方の伊掛山に逃れた。翌年、再興の綸旨が下り、その後加賀藩の支配下で社領の復活と伽藍の再建が徐々に進み、1772(明和9)年には、加賀、能登、越中、越後、飛騨、信濃の七か国を産子とする知識米綸旨が下り、経済的基盤が保証された。
一方、山城国の真言宗仁和寺を本山と仰いで朝廷との結びつきを図り、巻数。御撫物奉納などを通じて勅願所としての権威維持につとめた。
























加賀藩の中では、3代藩主前田利常や5代綱紀が特に石動山復興に力を入れている。
































しかし1868(明治元)年に明治政府は神仏分離令を出し、全国に廃仏毀釈のあらしが吹き荒れた。神仏習合色の強い石動山の影響は特に大きく、衆徒の還俗、寺領の没収、知識米歓の禁止など一連の措置により、一挙に宗教的・経済的基盤が失われた。また、伊須流岐比神社のみを存続させ、大宮を本殿、神輿堂を拝殿として残したほかは、ほとんどの堂塔。仏像・仏具などが処分された。