2023年6月16日金曜日

13代藩主の能登巡見巡り(12)石動山②

 前回の13代藩主の能登巡見巡り(11)石動山①は、石動山の歴史について紹介したが、今回は、資料館で見た「仏像」やその他の展示物について紹介する。また、昭和53年に国の史跡指定されて以来、石動山の整備がなされてきたが、その様子について説明する。


















江戸時代後期の「木造毘沙門天立像」と「虚空蔵菩薩像」(石動山天平寺蔵)



















江戸時代後期の「木造不動明王立像」
























前田利家寄進の「木造十一面観音像」
上記の4つの像は2007年の能登地震により破損したが、その後修復されたもの
























「五社権現神輿」は石動山5基にあったうちのひとつで、制作年代は飾鳥に刻まれた1776(安永5)年と推測されるという。


















「大宮坊」の入口で、この「大宮坊」は石動山の中心的な坊で、最盛期(中世)には360余坊、江戸時代には58坊すべてを支配した別当寺(寺務を取り仕切る本坊)として最も高い格式と権威を有していたという。ここでは、一山の支配・運営、加賀藩や京都の本山との交渉、年中行事などのぼうだいな寺務が処理されていた。














































伊須流岐比神社の入口の標柱と石段、鳥居


















鳥居をくぐると拝殿があり、もとは権現堂と呼ばれ、1701(元禄14)年に建立され、五社権現の5つの神興が安置されていた。


















その背後には、明治の初め石動山山頂の大御前にあった本社(大宮・白山宮)を移築した本殿がある。大宮、白山宮、梅宮、火宮、剣宮に祀られていた五社権現を合祀したものである。本殿は1653(承応2)年に前田利常の寄進で建立されたものである。


















「五重塔跡」は、昭和52年の発掘調査により発見された。1582(天正10)年の石山合戦で焼失したのち再建されず地中に埋もれたままであった。礎石に生々しい焼痕が見られるほか、周辺から焼けただれた木材、灰などが出土し、兵火のすさまじさが表れている。石動山の本山であった京都の勧修寺の文書には、1416(応永23)年に同寺別当職の慈尊院実順が導師を勧めて塔供養が行われたとある。
































「多宝塔跡」


















「梅の宮跡」は五社権現のひとつで、鎮定大権現と称し祭神を天目一箇命、本地仏を勝軍地蔵菩薩としている。1674(延宝2)年に再建されたもので一辺11m、高さ1mの正面を石積みした基壇に整然と礎石が配されている。


















7月の頃なので、ここにしかないヤマユリ「石動山ゆり」と呼ばれる珍しい花が咲いていてた。白色の大振りの美しい花で、内面に黄色の帯と紅色の斑点が見えた。


















石動山は、能登では最も広いブナ林を持った山としても有名である。(大御前参道)






「自然人」より