「おもしろ金沢学」より
花嫁のれんは年代によって特徴があり、明治初期には手引きで紡いで手織りした木綿の木地に両面に糯米の糊を置く筒描藍染めで模様を表現したものが多く、その後は薄手の河内木綿に友禅染された色彩豊かなものとなり、大正時代に絹地も友禅染が多くなり、羽二重・紋綸子と変化し、昭和時代になると縮緬が用いられた。明治・大正期のものは家紋が一か所の三巾だったが、昭和期にはいると家紋が二か所の五巾となり、模様染も豪華に表現されるようになり、吉祥模様には松竹梅・鶴亀・宝尽し・宝珠・薬玉・鳳凰などが用いられるようになる。
下の写真は、「花嫁のれん」の御簾に薬玉檜扇模様の五瓜に唐花紋で、昭和初期のもので三巾の友禅染である。
「松に火災太鼓・幕模様」で梅の輪と丸に蔦紋(加賀紋) 大正後期で五巾の友禅染
袱紗 大正時代 御簾に薬玉・貝桶模様 友禅染・刺繍
「加賀のれん」は加賀藩での外のれんと内のれんをいう。用途は各部屋の間仕切りである。部屋の鴨居から敷居近くまで垂れ、さまざまな吉祥模様が意気なデザインで表現され、簡素な室内空間に華やかさを添え糊置きや藍染の仕事をこなし、それぞれの自分の手製の見本持ち、客に見せて大体の模様と値段の意向を聞き、また持ち込みの下絵による特注品なども制作していた。
「外のれん」は、町屋の茶の間と次の間の間にある板戸を開けてかけた普段掛けで、始まりは江戸時代後期からと考えられている。外のれんは木綿地に藍染で普通三巾に仕上り、裏表狂いがなく両面に糯米の糊を筒描で置き、藍鬢に何回も入れて濃い紺色に仕上げている。
「石川国際交流サロン」の場所は、藩政時代は弓の的場があり、幕末には「壮猶館」があった場所である。明治には、尾古屋銅山を経営していた旧加賀八家の「横山家」の敷地であった。この建物は、大正時代に建てられたものだという。
21畳の広間や二つ並んだ8畳の座敷など、素晴らしい書院造の建物である。
8畳の部屋とつながった部屋との間にある欄間
21畳の広間の庭側にある床の間と横の竹枠の障子窓
ここの庭園も素晴らしく、赤や緑の木々に飛石と花弁が散っていて風情がある。