特に見せる石垣群がある玉泉院丸庭園の石垣にはいろいろな形状、大きさ、色などの石が積まれている。
この玉泉院丸庭園にある「色紙短冊石垣」は通常使われない縦長に積まれた長方体の石垣が見られ、現代アートにも通ずる異色の石垣である。
三十間長屋の建物の下の石垣は「金場取残し積み」といわれ、石の縁取り加工がなされデザイン性を高めている。
石川門の升形の内部の石垣は、時代の違う時に積まれた石垣が並んでいるため異様な感じがする。一の門から見て左側は寛永の大火(1631年)の後の「粗加工積み」で、正面は宝暦の大火(1759年)で炎や熱でひどく痛んだので積み直したため「切り石積み」となっている。
石川門は、今は一の門をくぐって右に回ると二の門があるが、江戸時代の初期の絵図を見ると左に二の門があったようだ。これは本丸など城の中心部が左側にあり、石川門から石垣の石を運ぶのに近道だったからだと推測する人もいる。石川門の右側には横山家の屋敷があり、城内にはいくつかの家臣たちが居住していた。
「よみがえる金沢城」より
金沢城の石垣のほとんどは、金沢城から東へ12kmほどにある戸室山という小さな火山から採取された戸室石である。この山は今から約40万年前の噴火によって生まれた。そしてその後の岩屑なだれによって崩れ落ちた安山岩の塊が、山麓のあちこちに埋もれているのを、人々が掘り出し石材として利用するようになったのが始まりで、400年前の金沢城の石垣作りから多く使うようになったという。
戸室石は加工のしやすさから、金沢城石垣だけでなく、庭石や社寺の石造物などにも利用されている。「赤戸室石」「青戸室石」と区別されることがあるが、化学組成上に違いはなく、どちらも同じ岩石である。色調が異なるのは、単に岩石が冷える際の条件の違いによるものであり、高温で長時間空気にさらされると赤っぽくなり、短ければ青くなるという。利用する人はこの色調の違いをデザインに生かし、場に応じて使っているという。
下図写真の兼六園さざえ山の「三重宝塔」は赤青戸室石を組み合わせた石塔である。
戸室山で採石された石は、現地での石割や石面の加工・調整が終わると、ようやく金沢城に運ばれた。小さな石なら少人数で釣り下げたり引いたりしたが、大きな石は20から30人以上の人足が、木組みに石をくくりつけて肩に担いで運んだ。さらに大きな巨石となると修羅というソリの上に乗せ。大勢で綱を引いて運んだ。修羅の下に丸太を並べて動かしたというが、坂道などは危険が付きまとったという。
「よみがえる金沢城」より
戸室石の石引きルートは大体決まっていたが、山麓付近は高低差が大きい場所があり、少なくするために等高線に沿って曲がりくねった道を通っていたが、後に新道など迂回路を作り、高低差を緩和している。田上橋で浅野川を越えると、その後が難所の牛坂で、これを上りきると小立野台地で辰巳用水を超えてから亀坂(ガメザカ)を上がると天徳院前の下馬に着く。後は一直線で石川門から金沢城に入ったという。
「よみがえる金沢城」より
早ければ二日、普通は五日間ほどかけて大石を運んだという。難所を過ぎた所で、人足達に酒やスルメを出し労をねぎらい、難所では木遣り衆の派手な衣装や掛け声で元気を出させた。熱狂と興奮の中におかないと、とてもついていけない重労働であったという。
下図写真は石引きを再現した「御山まつり」
「よみがえる金沢城」より