金沢城の石垣(2)の続きで、二の丸北面の石垣は、粗加工積み石垣の代表的なもので、後に石垣の秘伝書を描いた後藤彦三郎もきれいだと絶賛しているところである。この「お堀通り」は春には桜が咲き誇り、見ごたえのあるところだ。
この上にあった二の丸御殿の雨水を落としていた石樋がいくつか見える。
二の丸の菱櫓から五十間長屋下の石垣は、宝暦の大火で建物は大半消失したが、石垣も炎と高熱によって大きな損傷を受けたので、二の丸御殿の再建とともに石垣も修復されたという粗加工積みのきれいな石垣である。
金沢城の粗加工積み石垣のあちこちに、いろいろなマークが刻印されている石垣がある。各穴生(あのう)(石垣作り集団)の印だと聞いたことがあるが、実際にはよく分からないらしい。江戸城の石垣の刻印は、それを作った各藩のマークだと聞いたことがあるが?この刻印は、時代によって大きさもマークも違うという。
現在の本丸は鬱蒼とした森であるが、これは金沢大学が設けた植物園であったので、このような形になったが、それまでがあまり樹木の本数も少なかったらしい。
前田利家の時代には天守閣があったが、1602年の落雷のために惜しくも消失してしまった。その後、利常の時代に天守閣の代用の三階櫓のほかに辰巳櫓、申酉櫓、戌亥櫓、丑寅櫓など四つの隅櫓などがあったらしい。櫓だけでなく、本丸御殿、茶室、庭などもあったという。
「よみがえる金沢城」より
しかし、寛永の大火(1631年)ですべて燃えてしまった。5代藩主綱紀の頃には、二の丸御殿が藩主の居住地になり、本丸の役割は少なくなったが、本丸御殿や正門である鉄門は残っていたが、宝暦の大火でこれらすべての建物は消失したという。
現在残っているのは、下図の本丸の正門の鉄門(くろがねもん)の石垣だけである。ここに上に屋根の付いた鉄を一部使った立派な門があったらしい。右端には申酉櫓が建っていた。
この石垣は宝暦の大火後に修復された切り石積みの石垣で、いろいろな形状のものがすきまなく積まれている。
下図は二の丸御殿の裏門の石垣である。
ここも切り石積みの石垣であるが、長方形や正方形の石垣で積まれ、平行な線状になっていて整然としている。
金沢城は何度も大火に見舞われているので、土橋門には大火から建物を守るといわれる六角形の亀甲石がある。ここは二の丸御殿のすぐそばで、デザイン的にも面白い石垣がある。