2015年10月3日土曜日

金沢城の石垣(2) 慶長石垣 粗加工積み

前回の続きで、金沢城の石垣について紹介します。
慶長年間に築かれた「慶長石垣」の特徴は、築石(つきいし)部分が自然石を矢で割っただけの割石が中心であるという。この石垣は辰巳櫓南面の他に、北向きの大手門である尾坂門や三の丸の正門である河北門の北面などに見られる。
大手門(尾坂門)は、大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料がなく、屋根つきの門(棟門)が設けられていたと説明板に記されていた。前田家の参勤交代の出発点はこの門からになる。




















ここには、畳3~5畳もある巨大な鏡石と呼ばれる石があるが、鏡石は一般に大手門によく使われることから、ここが大手門だった証拠のひとつにもなるという。




















大手掘りから大手門の石垣を見る。子供の頃に、裏の階段からここの石垣に登って上から堀を見たことがあるが、怖くて寝そべって顔だけ出して見たことを覚えている。




















数年前に復元された河北門の前の坂の両側の石垣も「慶長石垣」の代表的なものである。河北門の復元された石垣との違いがよく分かる。






















乱雑に切り込んだ石を積んである。




















三の丸北面の河北門左手で、江戸時代には九十間長屋があった下の石垣も「慶長石垣」である。この九十間長屋も、長い建物が邪魔だということで明治の頃に軍隊によって壊されたという。




















元和、寛永年間には粗加工石が中心となるが、そのサンプルが展示されていた。割石の表面をさらにノミ加工を施し調整したものを「粗加工積み」という。表面がゴツゴツしているのでそう呼んでいるという。




















「切石積み」は丁寧に加工した切石を隙間なく積む方法で金沢城内にはさまざまな切り石積みの石垣があり、それぞれ特徴がある。




















本丸北面の石垣は寛永年間の「粗加工積み」である。




















石垣の表面が灰色になっている所があちこちにあるが、これは火災で溶け落ちた鉛瓦が付着したものであるという。このことからこの上に建物があったということが分かる。江戸時代に金沢城は何度もの大火(寛永、宝暦、文化)に見舞われている。