2023年12月8日金曜日

小松の近代化の遺構(2)尾小屋鉄道

 小松の近代化の遺構(1)の続きで、尾小屋鉱山は当初経営は苦しかったが、明治20年に良質な鉱脈を見つけると事業は順調に進展した。明治37年には横山事業部を設立し、尾小屋は日本有数の鉱山として栄えた。尾小屋の人口は5000人を数え、小松の市街地と同時期に電気が通じたといわれている。

当初は、鉱石の輸送は人力や馬力で行っていたが、大正期に入ると鉱石・鉱山用資材の輸送用に鉄道を敷く計画がなされた。鉱山長の正田順太郎(徳田秋声の義兄)が起業者となり、尾小屋駅から新小松駅まで16.8kmの路線が、1920(大正9)年に個人名義の正田順太郎鉄道として開通した。1929(昭和4)年に尾小屋鉄道へ譲渡された。

尾小屋駅の様子












尾小屋からは主に精錬後の祖銅が、新小松からは採掘・精錬用の物資や住民の生活物資が運ばれた。すなわち尾小屋鉄道は、鉱石輸送のみならず、沿線住民の足として活躍した。

梯川鉄橋

















この写真は上図の鉄橋だったのだろうか?

尾小屋鉱山が不況になり、尾小屋鉄道も経営の混乱もあり、日本興業の系列会社になった。その後、鉱山からの鉱石は、尾小屋駅で尾小屋鉄道の貨車に、新小松からは国鉄の貨車に積み替えられていた。しかしこの鉱石の積み替えは、輸送時の負担になり、鉱石の輸送は、鉱山からか小松駅へと向かうトラックに変わっていった。












昭和32年には、鉱石輸送が廃止になり、尾小屋鉄道は旅客輸送を主体とする鉄道となった。一方、尾小屋鉱山は輸入鉱に押され採算が取れなくなり、昭和37年に精錬所が廃止になり、尾小屋鉄道も沿線の住民が急速に減少し、新小松駅と尾小屋駅以外は無人駅となり、昭和52年に惜しまれながら、ついに廃止となった。


















鉄道事業から撤退した尾小屋鉄道は、会社名を小松バスに変更し、バス事業として今でも存続している。

尾小屋鉱山資料館近くには「ポッポ汽車展示館」があり、以前使っていた尾小屋鉄道の電車が展示されていた。
































「ポッポ汽車展示館」の裏の下の方には、尾小屋鉱山で働く職員の住居があったのであろうか?


















昭和37年に尾小屋鉱山の火が消えて、鉱山がなくなると同時に、賑わっていた650軒余りあった街中は、今では数軒を残すのみになったという。
下図は通り沿いにいろいろな店があり、賑わっていたことが分かる。











尾小屋の街並み
















写真は、旧尾小屋病院で大きな瓦の上に小さな瓦で装飾されたイギリス式の立派な建物である。
















鉱石を溶かし、銅を抽出する精錬の際に出るカスを「カラミ」と言い、鉱山では不要物であるカラミを成型し煉瓦にし、尾小屋町の人々は様々のものに利用した。その遺構が所々に残っている。
石垣として利用


















トンネルの壁として利用