2023年12月19日火曜日

小松の近代化の遺構(3)遊泉寺銅山跡

 小松の近代化の遺構(2)尾小屋鉄道を見た後、小松駅付近に戻り「イオンモール新小松」に入って昼食をとった。その後にバスに乗って、「游泉寺銅山跡」に行った。ここは、小松市の「ゴルフクラブ ツイーンフィールズ」近くになる。

今は、静かな山間の公園としてきれいに整備され、昔の銅山の遺構が見ることができる。



















游泉寺銅山 1916(大正5)年 建物配置図












公園内に入るとすぐに、ここの由来が刻まれた游泉寺銅山跡記念碑が建てられていた。

游泉寺銅山は、1807(文化4)年に創業。藩政期に試掘があったが、当時は藩の有力な財源であった。明治期に入り一時は官営の銅山であったが、1872(明治5)年に民間に払い下げらたのち、土佐出身の実業家で佐賀県の炭鉱を経営していた「竹内綱」が游泉寺銅山を買収した。そしてその長男で吉谷炭鉱の実質経営者であった「竹内明太郎」が鉱山経営にあたった。「竹内明太郎」は、電力を賄うために鳥越村で神子清水発電所を建設したほか、画期的な欧米の最新技術を導入し、その経営は順調に進み、大正の初めのころをピークに銅の生産量をあげていき、1916(大正5)年には千人近くが鉱山で働いていた。そそて1907(明治40)年には、北陸鉄道小松駅と游泉寺を結ぶ専用鉄道も開通し、游泉寺銅は巨大な鉱山街として賑わった。


一方、機械工業の重要性にも着目した「竹内明太郎」は、1917(大正6)年に自家用工作機械や鉱山機械の製作を目的として、鉱山経営を行う竹内鉱業株式会社の傘下に小松鉄工所を設立。事務所を鉱山専用鉄道の小松駅側の起点にあった遊泉寺銅山跡小松出張所に構え、それに隣接して工場を3棟を建てた。見習生養成所を小松鉄工所に敷設し、技能者を育てるなど育成にも力を注ぎ、高い工業力を蓄えていった。
大正期中期になると、第一次大戦後の不況で、遊泉寺銅山跡は経営危機に直面し、1920(大正9)年に閉山した。一方、小松鉄工所も不況の影響を受けたが、大正10年に銅山を経営していた竹内鉱業株式会社から分離独立して小松製作所となり、現在の世界的建機メーカーのコマツへと発展した。
初代コマツの社長である「竹内明太郎」の銅像


















近くに洒落たレンガ造りの建物は「里山みらい館」で無料休憩所で、中では古写真や解説パネルなどが展示されている。建物は北欧スタイルの「袴腰屋根」と呼ばれる屋根の形状で、ステンドグラスの窓が付いている。


















この辺り一帯は市街・住宅地が続く「遊泉寺銅山通り」と呼ばれていた。写真は遊泉寺銅山を物語る遺構の一つで、レンガ造りの炉跡である。


緩やかな通りの片側には杉林、もう一方には小川が流れている。散歩コースとしても気持ちの良いところである。この辺りに小松駅と遊泉寺銅山を結ぶ銅山専用鉄道の駅があったという。


















この先には行かなかったが、奥に「巨大煙突」や「竪坑跡」などの遺構が見られる。








「パンフレット」より
















「パンフレット」より















山元ホーム(遊泉寺銅山専用鉄道 銅山側起点)
『石川県案内』(明治45年4月)発行より


















遊泉寺銅山 選鉱場・精錬所など
『能美郡案内』(大正7年11月発行)より