2023年12月24日日曜日

小松の近代化の遺構(4)こまつの社 小松博物館

 小松の近代化の遺構(3)遊泉寺銅山跡の続きで、その後また小松駅の方に戻り、駅前にある世界で活躍するコマツの旧小松工場の跡地を改修した「こまつの社」に行った。



















まず小松市にあったコマツの古い本社の建物を復元した「わくわく小松館」に入った。ここでは、建設機械・産業機械のジオラマの展示や映像を見せてもらった。
















外には、アメリカで製造された、高さ7.3mの巨大なダンプトラック(930E)が展示され、階段が付いていて運転席まで上がってみることができる。


















長大型の油圧ショベール(PC4000)も展示されていた。これらは現在は国内というよりは海外で活躍してるらしい。


















続いてその近くにある「小松博物館」に入った。
まず創業者の「竹内明太郎」についての紹介がなされていた。江戸末期の1860(万延元)年に、今の高知県で生まれた明太郎は、戦後に首相を務めた「吉田茂」の兄にあたるという。20代から北海道や九州など日本各地で鉱山会社の経営などをやっていたが、1900(明治33)年にパリ万博の視察で、進んだ機械技術を目のあたりにしてショックを受け、「工業を発展させずして、国家の発展はない」という信念が生まれたという。九州で鉱山用機械を作る会社を立ち上げた後、石川県の小松に1917(大正6)年に小松鉄工所を設けた。

小松鉄工所本社(?)の建物のロゴ入りの鬼瓦


















そして技術者をヨーロッパやアメリカに派遣し、技術を習得させた。また理工科の設置を計画していた早稲田大学に実験室の建設や優秀な指導者を集め、理工科設置のために私財をなげうち、人脈も大いに活用した。その後も将来を見据えて人材を育成に努めた。
そして小松鉄工所を独立させ、小松製作所として創業したのは1921(大正10)年である。第一次世界大戦による軍事需要がなくなり、関東大震災などの影響により景気が悪くなり、明太郎も各地の鉱山を閉鎖する事態になった。大震災後の復興需要として鉄道やトラックの車両製造に鋳鋼が使われ、コマツでも鋳鋼製造が伸びたが、会社の経営はきびしくなり、明太郎は私財をなげうって会社を支えたが、1928(昭和3)年に68歳で生涯を閉じたという。
その後、日本では開墾用にトラクターを使い始めたが、当初はアメリカから輸入していたが、1931(昭和6)年にコマツは商品化に成功した。
時代が戦争を向っていく中にコマツは軍隊からブルトーザの開発を要請され、それをきっかけにG40トラクターをもとにしたブルトーザを製造した。これが国産ブルトーザの元祖となった。







戦後は、厳しい状態が続き、従業員1万人解雇したが、政府より食糧の生産を増やす計画が発表され、開墾用のトラクターを作るようにコマツに伝え、解雇した従業員を再雇用し、石川県の粟津工場で製造が始まった。
しかし戦後のコマツは、様々な試練に直面した。トラクターの生産の突然の打ち切りや大労働争議、そして1961(昭和36)年には、世界最大のアメリカのキャタピラー社(CAT)が日本市場に進出し、三菱重工と協力し「キャタピラー三菱」を立ち上げ、熾烈な戦いのはじまりとなった。
2013(平成25)年の粟津工場
この危機管理の中で、コマツはCATに立ち向かう作戦を立て、工場全体でQCによる品質管理対策を立て、主力のブルトーザをはじめとして、社員一人一人がQC活動の研修を受け、会社全体として大きな力となり、コマツのQCは産業業界の伝説となった。
様々な対策を経験した結果、アメリカに逆上陸するなど世界のコマツに挑戦した。その背景には、ブルドーザー、油圧ショベル、ホイールローダーなど豊富な品ぞろえで、QCで積み上げた品質のこだわりがあった。
QC活動の風景


2001年(平成13)年から社長6年、会長6年間やった「坂根正弘」は、私も講演を聞いたことあるが、「ダントツ商品」を開発するプロジェクトを作った。つまり他社が数年かけても追いつけないほどの技術的優位さを持つ建設機械を開発するということだった。そういう中で、ハイブリッド建設機械やICT技術を使った無人ダンプトラックなどのヒット商品が生まれた。


ハイブリッド建設機械は、排気ガス規制に対応するだけでなく、研究者たちは積極的に二酸化炭素の削減に挑んだ製品を開発した。















またコマツはGPSとインターネットを利用して、建設機械がどこで働いているかの情報を管理者がつかめる技術を開発した。これは「坂根社長」の講演の中でも聞いたが、社長室にICT技術を利用したディスプレイが置かれていて、社長室から即座に指示を出していたと言っていたのを記憶している。


















地元から世界に出たこのコマツの発展を私も大いに期待している。