護光山専光寺は真宗大谷派に属し、700年にもなる古刹で、開基志念上人は本願寺第3世覚如上人の弟子となり、大糠(大額)に創建したのが始まりである。
文明のころに第5世康寂が寺基を大野庄吉藤に移った。三門徒派の流れを汲んでおり、吉藤専光寺と言われた。
石山合戦をめぐって本願寺が東と西に分かれた時に、専光寺は教如の娘小姫を(宣妙尼)を迎え、加賀、能登の中心となって大いに勢力を伸ばしたという。1597(慶長元)年に前田利家の招きで金沢の後町に移り、さらに元和元年に安江木町(田丸町)の現在地に移った。
現在の本堂は、大火の後に大正時代に再建されたもので、以前の東別院を模して造られたという。
専光寺は加越能の総禄所として一宗を薫事し、触頭として136カ寺の触下を有したという。本堂の側面も入母屋造りで、彫刻も素晴らしい。
屋根に三つの鳥衾(とりぶすま)の付いた鬼瓦、懸魚などと金色に青銅色がすばらしい建物である。
境内にある鐘楼も立派な彫刻がなされている。
加賀の俳人千代尼お実家は松任の福増屋六兵衛の子女として生まれ、福増屋は専光寺の門徒であり、没後ここに千代尼の遺骨が納められたという。「月も見て 我はこの世を かしく哉」と墓石の側面に碑文が金沢の国文学者の和田先生の作であるという。
また、その隣には専光寺の三カ寺、発心寺の住職竹窓が詠んだ「身にあまる仏恩ながし喜寿の春」の句碑がある。
その隣には秋に見事に咲く「十月桜」がある。
山門の彫刻が細かく刻まれていた。また、瓦屋根の先端に「専光寺」の文字が刻まれていた。