2018年9月29日土曜日

明治維新と石川県誕生150年(1) 戊辰戦争

今回は、今年の5月ごろに歴史博物館で「明治維新と石川県誕生150年」の展示をしていて、それを見てきたので、思い出しながら紹介するが、このころのことは何度か他の書籍も読んだりしているが、よく分かっていないのであしからず。
























1853年にペリーが浦賀に来て日本が開国し、その後の日本の情勢は揺れに揺れ動いていた。日本海にも外国船が現れ、加賀藩でも危機感を持って海防政策をし、西洋式兵器の導入などをやっている。
下図は黒船来航の瓦版



















加賀藩でも13代斉泰は徳川幕府派であるが、14代慶寧は尊王攘夷派であったり、重臣たちも意見が分かれており、「禁門の変」での慶寧の行動を見ても分かるように、「日和見」藩、すなわち政治的に無関心、中立のレッテルが張られていたようだ。しかし、徳川幕府側と思われている加賀藩は、徳川家からは動いてもらいたいと思っているが、薩長からすれば動いてもらいたくないと思われているので、様子をうかがいながら政治的に動いていたようだ。
紆余曲折しているが結局は徳川慶喜に追放令と徳川家に味方することは「朝的」であるということになり、慶寧は今後勤王に尽力する意思を藩内に伝えているという。










































そして幕府崩壊後、新政府は各藩に最新兵器の威力を背景に軍事力を強力にし、新政府が各藩に反論を許さず、中央集権化を図っていった。
こういう中で、新政府は加賀藩は薩長軍と申しあわせて北國筋鎮圧の命が下り、加賀藩は戊辰戦争に参列することになる。この時、既に江戸城は開場し、主戦場は東北に移っていた。官軍としてでななかったが銃隊馬廻頭斎藤与浜衛を先発隊とする加賀藩兵が越中泊経由で越後へ出兵した。



















一方、官軍として参加した小川仙之助を長とする100人と箕輪知太夫を長とする100人も参加した。


































1868年4月の鯨波での戦い以降、激しい長岡城戦など新潟県、山形県にかけて各地で転戦し、翌年2月ごろに帰藩したという。加賀藩の動員者は約7,700人で死傷者は270人くらいだったという。



















後に加賀藩は、戊辰戦争で戦死した人々を祀るために、卯辰山に「招魂社」を建立した。今は、「護国神社」として石引に移っているが、その戦死者の墓は今でも卯辰山の菖蒲園から「豊国神社」へ行く途中にある。


この戊辰戦争は、今まで各藩で動いていた軍事改革が、これ以降は新政府が集中的に、より近世的な軍事体制を構築していった始まりといわれる。