今回は、家から近い大乗寺丘陵公園と大乗寺を散歩した。ここは、何度か来ていてこのブログでも紹介したところである。
今日(10月1日)は天気も良かったので、大乗寺丘陵公園からは日本海もくっきり見えた。
今の時期は、ここではあまり咲いている花もなかったので人は少なかったが、一部の葉が色づいていたが、よく見るとまだ一枚の葉に赤と緑の部分が入り乱れていた。
大乗寺の正面に行くと、大きな石碑と参道の両側に巨木が立ち並び、正面に侘びた佇まいの「総門」がある。
その威風から黒門と呼ばれる「総門」は1665(寛永5)年に建てられた。はじめ本多町大乗寺坂にあったが、寺の移転に伴いこの地に移築されたという。
その「総門」の前の左脇の小道の先に「旧能登能登城主 畠山家墓所」がある。さらに奥の下側にあの有名な「本田政均と12義士」の墓がある。(以前のブログで紹介)
7代の畠山義総(よしふさ)は戦国時代の武将、能登の守護大名で、能登畠山氏の全盛期でもっとも有名であるし、七尾城を作ったことでも知られている。
確か「荏原製作所」を創設した「畠山一清」は、ここの家系の人であると聞いたことがある。
本多家は、江戸時代に庇護していたことで有名であるが、畠山家もそれ以前から関わっていたのだろう。
「総門」と「山門」の間の所は参道が珍しく直角に曲がった「枡形」となっているが、寺院でも戦の場合の防御のためなのか?
この直角に曲がった参道の近くに「写経搭」という高さ2mの十一面観音立像、高さ1.4mの蓮座と1.5m立法の写経庫で納経量が10万巻可能だという物が中央にある。右に延命菩薩像、左に不動明王像が立っていた。
この付近には、赤い前掛けをした「お地蔵さん」が脇にたくさん並んでいた。どれも優しそうなお顔をしていた。
山号の「東香山」の大額が掲げられてる「山門」は、寛永年間(1624~1644)に造られたという。
門の両側には「仁王像」と大きな「大草履」が掲げられていた。
この裏側に回ると大きな「しあわせの鐘」が下がっている。参拝者は自由につくことができる。つき方が書かれていて強すぎず軽すぎずつけば、心地よい響きを体感できるという。
鐘の反対側の急な梯子のような階段を上ると、一般公開はされていないが一種独特の空間が設けられていて、釈迦如来を中心に極彩色の「十六羅漢像」が安置されているという。「十六羅漢像」とは、釈迦が入滅するときに、「一切の煩悩を断ち最高の知恵を得て、仏の正しい教えを永久に伝え、衆生を救う」と誓ったとされる十六人の聖者のことであり、釈迦に最も近いされる弟子のことを指すという。
「百寺巡礼」より